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仙人の戯言 2010年

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 人は皆、強欲の中に生きている。抗うことのできない欲望に苛まれている。そうして、欲に囚われない方がいいのだとは、だいたいは解かってはいるのだが、欲望は、人を絡め捕って放さない。

 そうすると、欲を捨て去ることができれば一番いいのだが、それがまた、難しい。欲を捨て去った、拭い去ったと、言い切れる者はいるのだろうか。欲を去ったと思い込んでいる者はいよう。しかし、本当に欲を去ったと思われる者に、まだ、会ったことはない。欲を去ったと錯覚している者は、また、別の欲の中にいるのではないか。欲を去ったかのように、体裁を繕い、そう思い込んでいるか、そのふりをしているばかりだ。

 人は、欲を捨て去ろうとして、捨て切れず、一所懸命欲を捨て去った格好だけをつけようとして、苦しみ続けるものなのかも知れない。その捨て去れない欲望に立ち向かい続けることが、修行なのだろう。

 また、そのどうしようもない欲望に逆らうことを諦め、欲望に耽溺してしまう生もある。しかし、溺れきることも空しく、苦しいのが、人の人たるものなのだと思う。ほしいままに、欲を貫くことの、空しく、せつないことを、人は、どうしても知るのではなかろうか。

 結局、人は、どんなに苦しもうとも、欲から逃れる術はない。欲を認めれば苦しみ、欲を認めなくとも苦しい。

 悟るということは、誰にできるのか。きっと、苦しみ続けるのが、人なのだ。苦しみながら、人として悩みながら、生きていくしかない。そこに、虚栄があり、見栄があり、絶望が待ち構える。虚栄も見栄も、気付いてはいるのだが、気付かないふりをして忍び寄る。そこには、何の悟りもない。偽りの虚像が存在するだけなのだ。心の中のよどんだ澱を、自覚し続けることは難しい。人は、えてして、やすきにつき、これでいい、これでもういいのだと、けりをつけたくなってしまう。

 欲望の解放から、欲望からの解放まで、様々な段階の中で、人は、そのどこかに立ち止まってしまう。そうして、決して、極悪人にもなれず、聖人にもなれない。それぞれの踊り場で、立ち止まり、これが人生さと、うそぶき居直って生きていく。

 人は、どこかに安らぎを持たないと、生きていけないのかも知れない。愛に溺れれば、一つの生き様であり、死に取りつかれても、一つの生き様となる。それが、安らぎなのであって、何しろ、愚かで弱々しいし人間は、何かに縋って生きていくしかない、のかも知れない。

 鰯の頭も信心から、と言い、もう心底思い込んでしまえば、楽なのだろう。信じられない者は、何処までも苦しみ悩むしかない。空しくて、寂しくて、恐ろしくて、妬ましくて、生きていく。虚勢を張って、私は、生きていくしかない。

  気が付けば 足下も先も 枯野なり

 

2010年  12月21日  崎谷英文


高校野球の応援

 夏の陽射しが容赦なく照りつける中、白い鉢巻をたなびかせ、僕は、汗だくになりながら、左手を腰に当て、斜に構え、右手の拳を振り出す。「かっ飛ばせ、櫛川。」

 明石球場に、三百人程の県立姫路西高等学校の生徒が応援に来ていた。そんな中で、僕は、応援団の一員として動いていた。公立の進学校としての伝統のある高校が、夏の甲子園野球大会の兵庫県予選で、四回戦まで進出するなどということは、希に見る快挙であり、応援団などというものは元々なく、急遽、応援生徒が募られ、偶々以前に生徒会にいたということで、役目を仰せつかったのである。

 昭和四十三年の所謂フランスの五月革命から、二年後のことである。五月革命、それは、フランスの学生たちの、旧態の変革、ベトナム戦争反対を唱えた自由と平和の運動であった。それは、全世界に拡がり、日本でも、大学紛争として学生の血を沸き立たせたのだった。

 その余波が、一年余りして日本の高校にも押し寄せ、西高でも、男子学生の帽子着用義務の廃止、頭髪の丸刈り規制からの自由化という動きが起こり、この試合の前の年の秋、田川良郎が生徒会長だった時、それらは、実現していた。頭髪に関するという、現象的に見れば他愛のないことなのではあったのかも知れないが、そこには、戦後、いや戦前から続いてきた権威主義的教育に対する反抗があり、若者たちの大人への従属拒否、自己主張、自由の獲得と言う意志があったのだ。大学進学、受験への対応一本槍の教育に対し、そもそも学ぶとは何なのか、教育とは何なのかと言う問題を提起するものであったと思っている。西高の教師にも、深く理解する人もいれば、旧態にこだわる人もいた。

 衣芳久が投げ、相手チームをよく抑えていて、宮田剛、櫛川保司、海浦輝明が打ち、三澤高志、北秀美がよく守っていたのだが、試合は、惜しくも敗れた。もちろん、甲子園には行けない。僕の下手な応援が災いしたのかと後悔する。

 しかし、母校を応援する、と言うことは、気持ちのいいものである。帰属意識というものが人間の本性にあり、それが、愛国心、郷土愛、母校愛に繋がるのだという人もいるが、帰属意識が、何故、愛着になるのかと言えば、そこには、何らかの共同作業、協同行為、共通意志と繋がりのある運命を共にするという連帯感があるからなのではなかろうか。ありていに言えば、仲間意識となろうか。もちろん、そんな仲間意識の持ちようは、個人により様々であろうが、多かれ少なかれ、共に喜び、共に慰め合うという、孤独からの脱却の契機があるのではなかろうか。しかし、また、そういったものが極端に走り、悪しき国家主義、全体主義に結びつくと言う恐れはあり、現に日本はそれを経験している。

 野球ももとより、チームプレイであり、協同意識の共同作業なのではあるが、応援する者にしてみても、ただ応援しているのだが、共に戦っているという連帯感、高揚感があり、喜びと安らぎが与えられる。

 団塊世代の大学紛争、そして僕たちの闘争も、今ではまるで一時の麻疹のように思われるのだろうが、旧態への抵抗という連帯感は懐かしく、忸怩たる思いが残る。あれから世の中は急速な変化をしてきているのだが、僕は田舎に燻ぼっている。

  したり顔 して鳶鳴くや 冬の空

 

2010年  12月10日  崎谷英文


真夏の夜

 姫新線の太市駅に着いた時、もう夜の十時を過ぎていただろう。僕は、安居則哉と二人、線路を渡り、駅の改札口で境港からの切符を駅員に見せる。今では、この駅は、無人駅であり、列車から降りる時は、運転手のいる一番前のドアから、その運転手に切符を渡し、定期を見せて了解を取る。しかし、その当時は、駅員が改札口にいて駅員に切符を渡していた。当時は、駅舎があり、駅長とあと一人の駅員が常駐していた。今では、余り見られない厚紙の切符を買っていたのだ。その二年ほど前までは、蒸気機関車が走っていた。

 僕たち二人が改札口に向かっていた時、改札をしていた駅員が遠くプラットホームの暗がりに目を凝らし、不審そうに見ている。僕は、急いで駅員に声をかける。「これで、後、幾らですか。」その駅員は、目を手前に落とし、僕の切符を見て、「八十円です。」と言う。僕は、プラットホームを振り返らないようにして、ポケットをまさぐる。八十円を駅員に払い、早足で改札を抜け、暗い道を則哉と共に走っていった。

 成功したのだ。僕たちは、境港から列車に乗ってきていたのだが、本当は七人、五人は境港から最小区間の切符を買い、検札を潜り抜けるように列車を乗り継いで、この駅で、改札口を通らずにプラットホームの西の端から線路伝いに降りていったのだ。

 三日前に、僕は、境港の駅に着いた。もう、夕暮れ時で、その当時、隠岐島への連絡船は時間切れであった。しかし、幾ら真夏とは言え、一晩野宿するのも大変なので、僕は、漁船の港の方へ歩いていき、隠岐の西郷まで行く漁船がないか探した。昔の船乗りは、気さくで優しい。ちょうど親子で操船しているらしい漁船に声をかけて頼んでみると、少し考えていたが、「いいよ。」と言ってくれた。僕は、その船で西郷まで乗せて行ってもらい、そこからは、仕方なくタクシーで友達のいるところまで行ったのだった。隠岐島と言えど、山の島で、暗い夜道、山間の谷道を通って西郷からは反対側に近い北東部の中村と言う小さな村に、夜の十時ごろに到着した。

 そこには、松木充信、山野真二、田川良郎、宮田剛、三本一樹、則哉がいた。小さな村で、彼らは、村の公民館に寝泊りしている。その夜、僕は、夜の海を泳いだ。真っ暗で何も見えない中を、嬉しく泳いだ。不思議と恐ろしさもなく、気持ちよく二百メートルほどを数往復した。夜の日本海は心地良かった。

 二日ほど、近所の子供たちと遊んだり、うなぎを取ったり、もちろん夜は酒を飲み愉快に過ごした。充信は、村の娘に恋をした。しかし、きっと僕が後から来て、彼らの予定を一日延ばしたことがいけなかったのだろう。貧乏学生の彼らの多くは、もはや、金銭の持ち合わせが足りなくなっていた。そこで、一計を案じ、列車で姫路駅まで行くのは止めて、太市駅で夜陰に紛れて逃げ出すことにしたのだった。若さとは、恐ろしくもあり、恐ろしさを知らない。

 十分ほど歩いて、我が家に着いた時、母親は驚いただろうが、さして怒った風もなく、僕たちに夜食を作ってくれた。後で聞いたところでは、呆れてものも言えなかったと言うことだった。その晩、酒を飲んで、みんなでごろ寝した。もう、三十五年以上も前の話である。

 また、隠岐島の中村に行ってみたいものだ。今度は、普通に行って、普通に帰るようにして。

  枯葉散る 落葉の上に また落葉

 

2010年   12月2日  崎谷英文


坂道

 「そうら来た。」山野真二が小さく叫ぶ。直ぐ後ろからついて来ていた足立ナンバーの乗用車が、僕たちの車に追突したのだ。運転をしていた宮田剛は、少し走って車を停め、乗っていた僕たち四人は車から出る。追突した車も停まり、運転していた男が車から降りようとしている。助手席の派手な化粧をして、ピンクの服を着ていた若い女は、少し困ったような顔をしていたが、別に自分を隠す様子もなく、静かに前を見ている。

 「どないしょってん。」真二が男に話しかける。男はジャケット姿で、ネクタイは着けていなかったが、真面目そうな三十代後半らしく見える。

 僕と剛は、一昨日の朝、東京を発った。剛のアルバイト先の乗用車を借りて、東名高速、名神高速を走り継いで京都に来ていた。京都で、木塚宏と真二に合流し、暫く遊んで、田舎に帰る予定であった。真二の下宿近くで安酒を飲んでの、翌日であった。

 この追突は、まるで図ったかのように起こった。京都の碁盤の目の西の端の緩やかな坂道を北から下っていた時、少し以前から、その後ろを一台の車がついて来ているのは分かっていた。その車を運転している男が、隣の女とちらちら目を合わせながら話をしている。バックミラーを見ながら運転していた剛が、後ろの車は大丈夫か、と言い、真二も、今にぶつけるぞ、と言うような予感めいたことをしゃべっていて、僕もちらとは、後ろを見たりしていたのだが、二度の信号停止では、ぎりぎりに追突することもなかったのだが、遂に三度目の信号停止で、その車は追突した。

 男四人が、オンボロ車に、そのエアコンのないことを隠すように窓を閉め切り、汗をかきながら乗っているのに、後ろの車は、グレーのジャケットを着た男と付け睫毛の濃い女が、涼しげに乗っているのだから、こういうことが起こるのは、天の配剤かも知れないと錯覚しそうだった。

 上野の寛永寺の指定された場所は、僧坊と言われる所であったろう。訪ないをすると、まもなく、一人の女性が現れた。それは、京都で見た、男の隣に座っていた女性ではなかった。きれいな和服姿の三十代らしい女性だった。僕たちの予測は当たっていたに違いない。追突以前から、その男と助手席の女の妖しげな様子は、伝わってきていたのだが、その男が、東京の僧であることが判り、何かあるとは思わせていた。

 僕と剛は、案内をされた六畳程の和室で待っていた。妻とおぼしきさっきの女性が、お茶を持って来て出て行く。やがて、その男が僧侶姿で現れた。男は、いたって静かに、僕たちに封筒を渡した。仕事に差し支えのないボロ車のバンパーが少しへこんだだけの弁償にしては、少々多すぎる金額だったろう。

 僕と剛と、そして何故か田川良郎が加わり、その金で、東十条の何とかキャバレーとか言う店で飲んだ。余りに面白くて、その金では足りなくなり、剛が学生証を置いて後で不足分を払うことになった。剛はその後バイトに苦労した。これも、天の配剤か。大学三年の頃、三十五年以上も前の話である。

 真二は、今も、その分け前に与れなかったことを怒っている。

  紅葉の あまりに紅し 闇の影

 

2010年  11月20日   崎谷英文


価値

 価値とは何か。辞書で引くと、@その事物がどのくらい役に立つかの度合い。値打ち。A経済学で、商品が持つ交換価値の本質とされるもの。B哲学で、あらゆる個人・社会を通じて常に承認されるべき絶対性を持った性質。真・善・美など。(大辞泉による)

 @とAにおける価値は、結局、個人にとってどれぐらい役に立つか、有用であるか、またはどれくらいの値段か、ということなのだろう。以前、何処かで見つけてきた変哲のない石を売る男の映画があったように思うが、宮沢賢治も小さい頃、山や河原で拾ってきた石を美しいものとして収集していたという。何処にでもある石が価値を持つことがある。もちろん、巨大な石が城の築造に使われたり、特殊な形をした石が何かに使えたり、美しく見えたりするような時、それらは、価値を持つ。しかし、それらさえも、その個人、それで城を造る者、それを使う者、それを美しいと思う者にとっての価値なのであり、関係のない普通の人々にとっては、価値あるものではあるまい。

 世の中の価値と言うものは、今では、Aの商品の持つ交換価値、一辺倒になっているのではなかろうか。ただの石でさえ、それがいくらするかということが、その価値を決める。それでは、その価値を誰が決めるのかと言えば、売り手と買い手の思惑の一致する所になろうか。いくら売り手が、価値のある、値打ちのあるものだと思っていても、その思う価値、つまり値段で買い手が買ってくれない限り、その価値は、売り手の者にとってのみの価値に過ぎない。逆に、売り手にとって価値の無い、少ないものも、買い手にとって価値のあるものだとして、思いもよらない高い値段で買われたりすると、そのものの価値が生じる。

 売り手は、一所懸命、そのものの価値を言い募り、宣伝する。買い手となる者は、そのものの価値を教え込まれるようにして、その商品を買う。役に立つものも、役に立たないものも。そうして、みんなが同じようなものを持つようになると、それが欲しくなる。また、逆に、みんなが持てないようなものを自分だけが持つという優越感から、そのものが欲しくなる。

 一体、この世の中に、本当に必要なもの、本当に役に立つものが、正当にその価値を認められているのだろうか。ろくでもないものが、如何にも価値あるように数多く氾濫しているように思えてならない。それが、万物の長たる人間の豊かさであり、文化なのだという声が聞こえる。しかし、それは、単なるマネーゲームにもなり得る。

 あらゆるもの、あらゆることがビジネスになる。教育も学問も医療も介護も、果てはボランティアさえもが、ビジネスになる。貧困ビジネスという訳の分からないものもあるらしい。

 何も、みんな哲学的になれとは言わないが、真実を究めるもの、本当に善いこと、美しいと心から感じるものこそ、価値がある。真に価値あるものを見出すためには、周囲の雑音に惑わされない、騙されない、深い思考と感覚に目覚めねばなるまい。河原の石も、商品としてではなく、自分が美しいと思えば、美しいものとして大切にすればいい。それで、価値がある。

  自らを 掃くかの如き 落ち葉掃く

 

2010年   11月12日    崎谷英文


シンベー日記 21

 秋が深まり、空の青さが目に沁みるようになり、裏の柿の木も、渋柿ではあるが、その二メートルほどの高さから、まるで、クリスマスツリーの飾りのように、実をたわわに枝を伸ばしている。群雀が、それを、まるで遊園地の遊具のように思ってか、一斉に群がり、一斉に飛び立って遊んでいる。

 この夏は、暑かった。一ヶ月以上もほとんど雨の降る日がなく、土は乾き、一時は、不死身とさえ思っていた雑草さえも、茶色く枯れていくようであった。

 そんな時、僕も、年のせいもあるが、大いに食欲を失くした。倉庫の北側で、直射日光は当たらないのだが、それでも暑い。家の外に出て、何とか風に吹かれたいのだが、その風もあまりなく、あったとしても生温かい。主人が毎朝くれる食事も、半分以上は残していただろうか。主人も心配して、散歩も朝早く、暑くならないうちにと、連れていってくれるのだが、朝から暑いのだから仕方がない。とぼとぼと歩くしかなかった。

 しかし、秋の稲刈りも終わる頃から、少しずつ雨も降り出し、暑さも和らいできた。僕も、少し食欲が戻ってきたように思われた。

 そんな頃だっただろうか、野良猫か、飼い猫か判らなかったのだが、ダラという猫が、僕の周囲をうろつくようになった。まだ、小さな猫で、やせ細った薄汚い茶と黒のマダラ模様をしていた。あまりに、かわいそうなので、僕は、彼に食事を分けてやることにした。主人が、毎朝僕のボウルに入れてくれる年寄り用の食事の、四分の一ほどを、ダラにやることにした。しかし、それを何を勘違いしたのか、主人がダラを追い払うのだ。それでも、ダラは、主人がいなくなると僕の食事を漁りにくる。僕は、黙って見ている。

 稲の天日干しが終わり、秋の装いが濃くなってきた頃、主人のダラに対する態度が変わった。何と、ダラ用の餌入れを、僕の家の近くに置くようになり、毎朝、僕の食事の四分の一ほどを、ダラの為にその餌入れに入れるのだ。主人の言葉によると、猫がいると鼠もやってこなくなるし、かわいらしいじゃないかということだった。僕も、来年は、十六才、人間で言えば七十才を優に越える年で、余り食べ過ぎない方がいい。賛成だ。

 そうしているうちに、ダラは、朝になると、主人の家の戸口に座って待つようになった。主人が出てくると、ニャーニャーと鳴く。もう、覚えたらしい。なかなか、賢い猫だ。主人の先に立って、自分の餌場の近くまで行く。主人が、その餌入れに僕の食事の幾分かを入れてやるのだが、主人がその場から離れるのを待って、やっと餌を食べ始める。主人が近づくと、パッと逃げる。以前、主人がダラを追い払っていた記憶があるのだろう。餌をねだりながら、すぐ近くには寄らせない。まだ、主人を警戒しているのだ。

 秋が深まり、ようやく主人がダラの餌入れに餌を入れて、その場で主人がじっとしていると、ダラが恐る恐る餌を食べに来るようになった。それでも、主人が、ちょっと動くと、すぐ逃げる。まだ、主人の手から餌をやることはできていない。到底、触ることもできない。僕は、それをもどかしく感じながらも、微笑ましくも思って見ている。

  鰯雲 鳶 烏に 群雀 (シンべー)

 

2010年  11月3日  崎谷英文


地球の一日

 今日、羽田空港の新国際ターミナルがオープンした。世の中の人々は、ますます世界中を飛び回り、世の中のいろいろなものが、地球を駆け巡る。

 太陽が昇り、一日が始まる。しかし、その同じ時、地球のどこかで、太陽が沈んでいるし、夜の漆黒に包まれているし、頭上の陽射しが輝いている。もはや、私の一日の始まりは、私だけのものなのかも知れない。一日の始まりは、一日の始まりではなくなる。私の一日の始まりは、一日の終わりでもあり、静寂の闇でもあり、真昼間の喧騒でもあるのだ。

 I were a bird.私がもし、鳥だったら、東に飛んで、一日を十二時間にすることもでき、西に飛んで、一日を三十六時間にすることもできる。鳥でなくとも、人々は、もう、そんな世界に生きている。ハワイに飛べば、日本を飛び立った日がよみがえり、ハワイから帰ってくれば、ハワイを飛び立った日は、なくなる。もはや、時というものは、日という単位を持たなくなっている。秒や分や時間は、地球上の何処にいても、同じように容赦なく刻まれていくが、一日一日は、ただ、そこにいるものにしか刻まれない。地球の一日は、始まりも終わりもない二十四時間なのである。

 だからこそ、羽田の新ターミナルも、二十四時間稼動でなければならなくなる。地球の一日に対応するには、常時活動していなければならない。空を飛び立たなくとも、どこかで、一日が始まれば、こちらも、その一日が始まる。世界の全てが繋がってくれば、ここの一日の始まりだけが、一日の始まりではなくなり、世界中の一日の始まりに合わせて、その一日を、始めなければならない。

 大航海時代を経て、地球は狭くなってくる。そこに生きているのが人間だったと思うのだが、ここに生きながら、あちらにも、そちらにも生きなければならなくなってくる。ジェット機の時代になり、なおさら地球は狭く、一つになっていく。インターネットや衛星通信網が発達してくると、もはや、ここにいながらにして、地球上の何処にでも生きていることができるようになる。むしろ、ここに生きながら、あらゆる所に生きなければならなくなった、ということであろう。

 今、世界は、ほとんど全てにおいて、政治、経済、文化、あらゆる分野について、結びついている。ということは、ここやそこにあるものは、別に、ここやそこにある特別なものではなくなるということなのだろうか。人は、そこに住むそこの人なのではなくなり、そこにあるものは、そこにだけあるものではなく、世界中に開放され、何処にでもいる人、何処にでもあるものになっていくのであろうか。

 そうかも知れない。しかし、そんなにも地球を無理矢理狭く、一つにしていくことが善いことなのか。世界が繋がっていくことは、ひとつの進歩なのかも知れないが、こんなにも、常に、密接に、親密に、がんじがらめに、結び付けられ、繋がれなくてはならないのだろうか。世界と否応なく繋がれて、ますます小さくなっていく人々は、大きな世界に振り回されて、抗うこともできず、ただ、運命を共にするしかなくなる。

 世界と繋がりながらも、ピンと張った糸ではなく、弛みのある糸であれば、たとえ切れてもひっくり返ることはない。

  朝寒や 見えず野良猫 何処やら

 

2010年  10月21日  崎谷英文


祭り

 日曜日、今朝は、特に早く起きる必要があるというのは、この村の祭りの提灯と幟を、駅の前と交差点の所に立てるという役目があるからなのだが、年を取るに従って、朝は早く目が覚めるようになっていて、いつも起きている時間で充分間に合うはずなのだが、もし遅れたら申し訳ないので、目覚まし時計をかけて寝たのだった。

 祭りは、まつりごとと言うように、政事に繋がる。その昔、卑弥呼以前の時代から、神を呼ぶことができるシャーマン(占い師)が政治を行っていた。人の力の及ばざるところを知り、天の声、地の叫びを聞くことが政治の根本方針だった。もちろん、権力者が、民衆の天地を畏れる心を利用し、その占いを左右して、権力を行使したこともあるだろう。しかし、権力者もまた、天地の脅威の中で、まつりごとを大切にしていたことも確かだろう。天地に豊作を祈願し、感謝する。祭りは、仕事に明け暮れる人々を癒すものとして、また、その村人たちの共同体としての連帯を強くするものとして、重要な役割を果たしていた。

 今、村の祭りというものも、所により様々となっている。今も、盛大に神輿を担ぎ、多くの若者たちが勇壮に繰り出す祭りも、たくさん残っている。しかし、わが村の祭りは、それほどにぎやかではない。神輿は、子供たちのものが、それぞれの地区から、担ぐのではなく引っ張られて神社に寄り集まってくるばかりで、若者たちの神輿はない。私の子供の頃は、旅芝居の劇団なども来て、もっとにぎやかだったように記憶している。今のこの村の祭りは、伝統として守ろうとする年寄りたちや一部の大人たちの意気込みと、祭りを子供たちに何とかして楽しませてやろうとする親心に懸かっている。現代の小さな村の祭りは、何処に行っても、同じようなものかも知れない。

 昔は、生きることと地域生活とが結びついていた。村という共同体の中の生活が、そのまま生きることに繋がっていた。祭りは、村という共同体の一大行事として、大人たちも子どもたちも、収穫の願いと喜びを共有して大騒ぎをするものだった。日頃も、密接につきあい、豊かさも貧しさも互いに分かち合い、助け合いながら生きていた村人たちであったであろうが、祭りによって、その絆はなお一層深められていく。村を出たら異国に近く、人々の生きていく世界は村の中にあった。時に、村を出て行った者たちも、錦を飾る望郷の念が強い。

 しかし、今、生きるということと地域で生活をするということとは、分離している。生きていくということと、そこに住むということとが、かけ離れたものになっている。地域の中で、助け合って生きていかなければならない状況ではなくなってきている。若者たちにとって、住処はその地域に限らないし、その地域でのその地域の人たちとの共同生活によって支えられているという感覚は、ほとんどなかろう。若者たちを囲い込もうとしても、若者たちは、外の世界に目を向ける。地球が狭くなり、魅力的な都会は、すぐそこにある。そうして、ルーツとしてのふるさとはあっても、帰るべき故郷は遠くなる。

 かろうじて、祭りが、村を地域を守ろうとしているのかも知れない。

  繰り返す 日の目を覚ます 冷ややかさ

 

2010年   10月12日   崎谷英文


帝国主義

 帝国主義とは、広くは勢力範囲を拡大しようとする歴史上の膨張主義、例えば、アレクサンダー大王の大帝国(BC3世紀)や、ローマ帝国(AD2世紀頃)、モンゴル帝国(AD13世紀)などの、周辺地域への征服活動を示すが、一般的には、19世紀後半からの、ヨーロッパ列強、イギリス、フランス、遅れてドイツ、ロシア、さらにはアメリカ、日本などの、大資本と結びついた国家の対外侵略活動、植民地政策活動を指す。

 国家は膨張しようとする。広い意味での帝国主義のそれぞれの時代においても、それは、国家権力の安定のために、また、過剰な欲望のために、対外進出による人民、領土、資源、市場の獲得を目指したものである。人は、権力を掌握すると、その権力の保持と、更なる権力の獲得を目指す。欲望は、決して達成されない。達成されたと思われた瞬間に、次なる欲望が生まれる。

 19世紀後半からの帝国主義においても、それは、勢力を拡げることによって、権力の拡大、自国の利益の拡大を狙って行われた。啓蒙するという自分勝手な言い訳をもって、他国の領土を植民化し、資源を奪い、人民を労働者として動員し、市場を拡げようとしたものである。しかし、その結末の悲惨なこと(第一次世界大戦、第二次世界大戦)は、よく知られている。

 二度の対戦の後、帝国主義は、反省されたかのように、民族自決主義にその座を譲り、社会主義と自由主義との東西対立の冷戦状態に移る。その後、ソ連、東欧諸国の崩壊により、社会主義陣営たちも、経済の資本主義化に転換する。

 そして今、世界は再び、新しい帝国主義の時代に突入している。以前の独占資本主義と国家との共同侵略行為が、グローバル経済の下に、再来している。それは、暴力的侵略ではなく、巧妙に仕組まれた金融資本主義を背景にした経済的侵略となって表れる。分割されたはずの資本が、再び合同され、国家、国民と運命を共にする程に巨大なものになる。国家と資本、帝国主義者たちが手を結ぶ。国家と資本は、協同行為を為さざるを得なくなる。国家の運命は、大資本との連携に懸かる。かくして、何としても、大資本たる大企業を保護し、更なる成長をさせることが、国家の大きな役割となる。グローバリズムの名の下に、静かなる帝国主義が蔓延する。帝国主義の標的であった国々が、更に帝国主義に参入する。

 対外的帝国主義と併行して、いや、むしろ、その前提として、対内的帝国主義は進行する。大資本の下でのみ、中小企業は存在する。大企業の利益のおこぼれにあずかる中小企業が、真っ先に不況の波に襲われる。労働者もまた、大資本の存続の為に悲哀をなめる。

 それでもまだ、大量生産、大量消費の循環のみが、回復の道であるとしか考えない者たちが、グローバル経済に固執し、保守しようとする。都会に誘われた労働者たちを、仮想の豊かさの宣伝で篭絡し、大量消費者として存立させる。もはや、逃げ場のない、田舎に帰れない人たちを、都会の牢獄に閉じ込める。

  冷たくも 潰れし甲羅に 秋の雨

 

2010年  10月3日   崎谷英文


手応え

 先日、稲刈りをした。稲刈りと言っても、今、普通にやっている所謂コンバインでの、立っている稲から、刈り取り、脱穀、を一度にやるのではなく、バインダーという機械で、刈り取り、束にして根元を麻紐で括っていくという作業をする。バインダーという機械は優れもので、人が稲の筋に沿って押して進んでいくと、稲を下から掬うように刈り取り、それを立たせて、適当な太さになったら、麻紐できつく縛って、横に飛ばす。それを、延々と続ける。朝の八時から、短い弁当時間を挟み、六時間ほどかかって、田が稲束で埋め尽くされる。

 その翌日には、それを、松ノ木でできた稲木というものを三脚、二脚にしたものを組み合わせて、その間を竹で通して、その竹に稲束を一つずつ架けていく。所謂、天日干しにする。今年は、とんど焼きの藁が欲しいというので、子供会の親たちが数人手伝ってくれたので、作年よりは、ずっと早くできた。人海戦術とはよく言ったもので、一人の力は小さくとも、数が増えれば莫大なものになる。それでも、二、三時間はかかった。後は、天候が良ければ、二週間ほど後に、脱穀をして、籾摺りをする、ということになる。

 今の普通の米作りは、ほとんどが機械任せであり、薬品任せである。化学肥料を撒き、トラクターで耕し、代掻きをし、田植え機で田植えをして、除草剤を撒き、コンバインで刈り取り、脱穀をし、乾燥機で乾かし、籾摺り機で籾摺りをし、玄米ができる。

 それでも、人は米作りは大変だと言う。機械任せでも、炎天下の下では、ちょっとした作業も身体には堪える。スポーツで、汗をかくのは流行りだが、農作業で汗をかくのは嫌われる。人は、少しでも楽をしようとし、楽にできればそれに越したことはない。だから、機械任せの米作りも、面倒になって止める人も多く、若い人はやろうとしない。

 昔の米作りは、今の比ではない。道具はあったが、機械はない。私の小さい頃は、牛に大きな鋤を引かせて田を耕していた。農家には、牛か馬が一頭はいた。田植えの時には、早乙女たち(おばちゃんも)が、一斉に並んで苗を植えていく。雑草は、手に爪のようなものをつけて、稲の間を引っ掻くように取っていく。刈り取りも、鎌で刈り、束ねて藁で結び、天日干しにする。千歯扱きで脱穀をし、唐箕(とうみ)で籾摺り選別して玄米ができる。八十八の手間のかかる仕事だった。

 何が違うのか。手応えが違う。道具を使っても、手応えはある。機械にはない。スイッチの感触は手応えではあるまい。道具を使っているときは、たとえ、土に直接触れなくとも、手足は土に繋がっている。力を入れた手足に、大地が応える。大地から還ってくる力は、手足に響く。稲穂の一つ一つが目の前で磨かれていく。磨かれていく感触が、掌に刻まれていく。手応えのないということは、何か胡散臭い。どこかで騙されているような気さえする。手応えがあるから、天にも祈るし、大地にひれ伏す。昔の米粒は、尊かった。

 三日前に稲を干したばかりなのに、雨が降り出した。天に祈る。

  稲刈れば 蛙は鳶に 食はれけり

 

2010年  9月22日    崎谷英文


自然の循環

 人の身体には、循環器、心臓がある。循環というのだから、何かが廻り廻っているということになるのだが、それは、言うまでもなく、血液である。しかし、血液は、ただ、人の身体の中をぐるぐる回っていればいいというものではない。血液循環の最も重要な働きは、酸素を身体全体に行き渡らせることなのだ。身体全体に酸素は送られ、酸素は、そこでものを燃やすことになる。私たちが食べた栄養分、特に、糖、アミノ酸、脂肪などが、酸素と結びついて、熱を生じ、エネルギーを生む。その熱やエネルギーが、手足を動かし、脳に思考させ、内臓を働かせる。

 血液の循環は、さらに、その栄養分の酸化により生じた二酸化炭素を運ぶという役割をする。酸化燃焼により生じた二酸化炭素は、人の身体では、もう必要なものでなく、長く体内に留まっていてはいけない。酸素が二酸化炭素に変化して、酸素が少なくなったのだから、さらに、酸素を身体に持ってくる必要がある。そうして、血液中の二酸化炭素は、心臓を経て、肺に運ばれる。肺では、呼吸により吸収された空気中の酸素と、血液で運ばれてきた二酸化炭素とが交換される。こうして、血液中に酸素が取り込まれ、それが心臓に戻って、また、人の身体の中を循環していく。

 肺に吸収された空気中の酸素が、血液で運ばれてきた二酸化炭素と交換され、肺の中の二酸化炭素が多くなった空気は、呼吸によって、体外に放出される。その放出された空気中の二酸化炭素は、緑の草木の光合成という栄養分を作る働きに利用され、再び、酸素を生みだすことになる。こうして生み出された空気中の酸素は、再び呼吸により、人の肺に吸収され、心臓の働きによって、全身に運ばれていく。

 緑の草木が生産した栄養分は、自らの実や茎や根に蓄えられていくのだが、それを、草食動物たちが食べる。草食動物の食べた栄養分は、呼吸により取り入れられた空気中の酸素、つまり、草木の光合成により作られた酸素により燃やされて、草食動物は生きるエネルギーを得る。草食動物を食べる肉食動物もまた、その食べて得た栄養分を、酸素によりエネルギーに変えていく。

 動物たちの排出物や、動物、植物の死骸は、微生物によって分解され、一部は空気中に放出され、一部は地中、地表で小さな水に溶けるものとなって、それらは、再び、緑の草木により葉や茎から取り入れられたり、根から水と一緒に吸収されて、植物の生長、エネルギーの元となっていく。

 その生きていくエネルギーを、常時支え続けているのが、太陽の光と熱ということになる。

 地球上のあらゆるもの、地球上の生き物たちは、全て結びついている。限られた物質を交換しながら生きている。どこかで、その循環が滞る時、地球上の生命の営みも停滞する。元々、地球上の生き物たちは、生命の誕生した三十七億年前から進化してここまで到達してきているのであり、自然の循環という驚異とも言うべき仕組みの中で、あらゆる生物は、繋がっているのである。

 人間も、その自然の一員であり、自然を操作できると思うのは傲慢なのだ。しかし、人間は、自然を破壊することはできそうだ。そうしたら、人間ももちろん破壊する。

  群れ飛びて 我を包むや アキアカネ

 

2010年   9月13日  崎谷英文


言葉と文字

 原始、人は文字を持たなかった。しかし、人として、他の類人猿との違いとして、言語活動を行っていた。古代においても、言葉はあったが、文字を待たない民族が多かった。日本も、中国から入ってきた漢字によって、初めて文字を得た。現代でも、アフリカや南アメリカの原住民たちは、言葉は持っていたが、文字はなく、ヨーロッパからの文字を受け継いで初めて文字を持つものも多い。

 言葉の獲得は、教育の賜物ではない。言葉は、生まれ育った環境の中で、大人たちの語りかけ、大人たちの語り合いを聞くという経験の中で、自然の内に覚えていく。言葉は、ものの名称として、種々雑多なものを区別することを教える。また、様々な、行為、作用、状態の有り様、違いを教える。それらが、固有の文法で繋がり、人と人とのコミュニケーションを可能にする。

 文字を持たなかったとき、言葉が、人と人とを繋ぐ、複雑な情報を伝え合う重要な役割を果たす。そこでは、一回きりの言葉であり、その言葉は記録されない。言葉は、記憶として残るしかない。文字を持たない人たちは、自分の頭の中に、言葉を刻み込んでいくしかない。だからこそ、神話が生まれ、伝説が生まれる。文字がないからこそ、語り伝えねばならないことは、神話としての物語になって伝えられる。単なる文章としての言葉は、記憶され続けることは難しい。しかし、歌うように抑揚をもって、格調高い物語として、耳から耳へ伝えられる時、神話として語り継がれ、伝説として残っていく。時に、その記録されない神話の中にこそ、その民族の真髄が隠されている。

 文字が作られ、人は記憶する必要が少なくなる。しかし、初めに言葉ありき、ではないが、人は書かれた文字も、聞こえる言葉として理解している。黙読をしている時も、頭の中では、その文字群は、音として聞こえている。そもそも、コミュニケーションは、言葉である。文字が発明されても、通常の社会生活は、会話という言葉のやり取りで成り立つ。文字は、自然に覚えるものではなく、教育環境の中で育たないと覚えられないのであり、中央で、文字が使われていたとしても、周辺では、言葉しかないということもある。

 文字が発明されると、重要なことは記録され、また、文学も生まれる。神話も昔話も伝説も、文字になって記録され、大切な意思連絡は文字によって確認され、ほとばしる思いが文学となって、残っていく。

 しかし、文字に書かれ、記録があり、読めば解かるといっても、人の思考は、その基礎に言葉があり、記憶があらねばならない。読みながら考えることはあっても、今読んでないから考えることはできないというのではおかしく、考えることができるのは、記憶としての言葉が、出発点となる。文字もやはり記憶され理解されなければ、少なくともその人のためにはならない。

 コンピューターの時代で、何時でも何処でも情報が手に入ることは、便利なことだが、何時でも情報が得られるからといってコンピューターを抱えているだけでは、何の役にも立たない。人が思考するということは、頭の中で考えるということであり、考えるための情報が、既に頭の中に入っていないと考えられない。情報を取り出せば、賢くなるのではない。そういうことをしていると、ただの情報の奴隷に過ぎなくなる。

  ガラス窓 座禅の守宮 腹を見せ

 

2010年  9月2日  崎谷英文


竹林の七賢

 先日、高校時代からの親友たちが、我が家に一堂に会した。まさしく、竹林の里に、七人の賢人(他に女性二人)が集まり、ひとりの愚者がもてなす。(専らもてなすのは、我が妻であったが)

 竹林の七賢は、日本で言えば卑弥呼の時代、中国の魏、呉、蜀の三国時代の人たちである。乱れた世の中を逃れ、竹林を好み、自由な生活を楽しみ、酒をこよなく愛し、琴や琵琶を奏で、大いに論じ合ったという。とは言え、七人それぞれの個性があり、官職に就いていた者もいれば、医術に長けたものもあり、詩を得意とする者、散文を得意とする者、不老不死を研究する者など、様々であったようだ。

 概して言えば、儒教的道徳社会に囚われない、老荘思想の無為自然の自由奔放さを好んでいた。政争を離れ、自由に人間の真実を語り合ったのだ。

 我が家に会した者たちも、個性豊かな豪傑ぞろいである。酒の武勇伝を数多く持つ布袋を思わせる豊かなY君、生徒会長だった、今も社会を変革しようと意気軒昂なT君、柔道の猛者で、今は国替えした四国に戻り最新医療機器を研究するS君、秀才の誉れ高く、法を持って弱者を救っているN君、文学青年で、今は希少金属を一手に引き受けるM君、野球三昧からゴルフ三昧になった、エネルギー研究者のK君、バスケットをやっていて長身で、地球環境の為に世界を飛び回るI君。

 高校時代からの仲間たちであるが、齢六十に近くし、当時の面影を彷彿とさせながらも、長き年月をもまた感じざるを得ない。高校時代から清談してきた仲間なのではあるが、四十年を経ても、まだ、それぞれの立場はありながら、心根は純情である。

 この年代になると、両親揃う者たちも少なくなる。その日会した中では、二人が、両親は健在だが、他の者たちは、両親共に亡くなっているか、母親だけを残す。母親のいる者たちも、ほとんど、この郷里に親を残したまま、大都会に住む。先日の集まりもまた、その親の様子をたずねながらの帰郷中のことである。

 そして、また、それぞれ子供のいる者たちも、その子供たちは、独立するか、独立していないまでも成人に達しており、子育てからは解放されつつある境遇になっている。

 竹林に集う賢人たちの、そして私の、それぞれの生きてきた有り様を思うと、遥かなると共に、瞬く間であった気がする。苦楽の変遷も、また過去の一瞬に過ぎなくなる。人生とは、そんなものかも知れない。懸命に駆け抜けた先に待ち受けるものが、そろそろ見えてくる。そろそろと思いながら、何時とも解からない。

 私なんぞは、もう惰性で生きている。生きていることが面倒くさくなってもきているのだが、かといって、死ぬこともままならず、六十近くまで生きてくると、やり続けやっていかなければならないようなことも結構あり、また、そんなことを嫌々ながらやっていると、それがまた、面白くもなってきたりして、何とか生きている。

 七人の賢人たちの思いも様々であろうが、大いに飲み清談することの愉快さは、この上なかった。生きている限り、賢人たちとの清談は続く。

  何処かと たずねて見えず 法師蝉

 

2010年   8月21日   崎谷英文


諸行無常

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。(平家物語)

 さらに、続く。中国での昔の亡びたいくつかの王朝を挙げ、それらの亡び去った時の王は、享楽に興じ、民の苦しみを知らず、奢り高ぶっていたために亡んだ。日本で反乱を起こした平将門、藤原純友なども、奢り高ぶっていたために亡んだ。特に、平清盛の奢り高ぶっていたことは、想像にも言葉にも表せない。

 確かに、有史以来、平穏無事に続いた国はない。ヨーロッパ、西アジアを見ても、様々な国が、時に栄華を誇り栄えたとしても、長く生き残るのは稀であった。古代ローマなど比較的長く続いた国もあるが、やはり、遂には亡びた。

 しかし、亡び行く時、為政者たちは、贅を尽くし、民を省みず、享楽に耽っていたのであろうか。必ずしもそうではなかろう。時代の変化は、どんなにこれまで平和と豊かさを享受していた国においても、その国の変革、改革を求めるものなのだと思う。新しい政治、新しい経済、新しい文化、というものが、その国自体の変革、改変を求めていくのだと思う。ローマは、時代の変化にかなり上手に対応したからこそ、長く続いた。江戸時代は、鎖国という政策により、世界の時代の変化の波を受けることが小さく260年続いたのであるが、やはり、時代の変化は日本にも及び、江戸幕府は、対応できず、遂には亡んだ。

 つまり、奢り高ぶった為政者の為に、国が亡ぶのではなく、大きな時代の波が、国を亡ぼすのである。時代の変化に、見事に対応していくことのできる国だけが、生き残る。変化の兆しを読み取り、先取りした改革を行うことのできる国が生き残る。しかし、そんな国も、いずれは亡ぶ。

 現代において、政治、経済、文化などあらゆる分野で、時代がその変革を求めているのではなかろうか。もっとも、この時代の変化というものもまゆつば物で、その変化が単なる流行的なもので、実は、もっと根源的な変革が必要なところを、小手先の改革で間に合わせようとしているようなことも多い。そういうその場しのぎの改革では、延命にしかならない。必ず、同じような困難に突き当たり、遂には亡ぶ。

 人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか、目を喜ばしむる。そのあるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。(方丈記)

 人は何処から来て、何処へ去るのか。この世の仮の住まい、誰のために苦労して、何をしようとして目を楽しませるのか。その家の主人と住居が、無常を争う様子は、朝顔の花とその上の露と同じだ。露が落ち、花が残る。残る花も、朝日に枯れる。花がしぼんで、露はまだ消えない。消えないといっても、夕べを待つことなく消えてゆく。

 国家が、諸行無常ならば、人も自然も諸行無常である。

  雑草の 蔓延りし田に 濡れており

 

2010年  8月5日  崎谷英文


機械化社会

 今の世の中、様々な機械が働いている。その昔、人々は、道具というものは使っていたが、いわゆる機械というものは使っていなかった。道具と機械との違いは、一応、道具は、人がそれを自ら動かして使う、つまり、人の力で道具が動くもので、機械は、人の力以外の動力源、例えば、電気とか石油とかのようなエネルギーが、それを動かしているものといっていいだろう。

 人が道具を使うのは、それが、人と猿との違いの一つと言われているように、人間の本質的な営みであると考えられるが、機械の出現は、産業革命を待つことになる。その産業革命後の科学の発達は目覚しいものがあり、現代では、機械がないと社会は成り立っていかない。それは、何も工業生産の分野だけでなく、農業においても、漁業においても、生活においても、機械というものに頼らなければならない現代社会となっている。

 さらに、現代では、コンピューター分野の発達により、昔からすれば、夢のような、幽霊のような、嘘のような、バーチャルリアリティーの世界が作り出され、大量の情報が飛び交う。

 しかし、今や、私たちは、このことを当然のこととして受けとめている。しかし、振り返ってみれば、過去の人たち、機械というものを持たなかった人たちも、立派に生きてきた。彼らは、電車や自動車がなくとも、自らの足で物を運び、旅をした。トラクターがなくとも、鍬で畑を耕し、田植えもみんなでした。携帯電話がなくとも、丁寧に手紙を書き遠くの人と話をした。暑ければ、木陰で休み。寒ければ、毛布を被った。

 彼らが不幸だったのかと言えば、もちろん、そうではない。しかし、今、私たちが電車や自動車を失くし、電話を失くし、トラクターも田植え機も失くしたとしたら、きっと、人々は、不幸だ、惨めだ、やっていけない、などと感じるのではなかろうか。

 その昔、チャップリンは、人間が機械の歯車のようになっていく社会を描いた。組織化、機構化、情報化した社会の人間は、自働機械になっていくと言った社会学者もいる。もはや、現代は、彼らの言ったとおりの世の中なのかも知れない。機械を使う人間ではなく、機械に使われている人間になっているのかも知れない。時に、人が自然を求めて彷徨うのは、コンクリートと機械に閉じ込められていることの裏返しである。我々は、機械を使っているのではなく、機械に使われてしまっている。便利で、効率のいい、都合のいい機械を利用しているつもりが、実は、機械に拘束され、自由を束縛され、確かに見えるはずのものから目を逸らされているのかも知れないのだ。真に両の目で見、両の耳で聞くものが、遮られてしまっている。

 考え方を原点に戻せば、便利な、快適な機械生活が、必ずしも、いいとは限らない。時間をかけて、手作りでもの作りをすればいい。手で土を耕し、暗くなれば眠り、暑い時は木陰で昼寝をすればいい。小舟に乗って釣りをして、地引網を引けばいい。機械は、人間を、大地と自然から切り離す曲者である。

  上弦の 月さやかなり 夏の宵

 

2010年  7月22日   崎谷英文


何をしているのか

 ふと、今、自分は何故こんなことをしているのだろうか、と思うことがある。疑問に思うというような未知への疑惑、関心なのではなく、今、自分がやっていること、朝起きてからの日常的、習慣的なこと、例えば決まりきった食事中にさえ、何故か同じようなことを繰り返している自らの行動の不可解さに思いつく。日常的な行為でなく、やるべきことはやらねばというような、例えば草刈りをしている時、さらには、遊んでいる時においても、何をしているのか、とふと思うことがある。

 どうやら、年を取ったせいらしい。年を取って、生きていることに無関心になってきたのかも知れない。年を取ってくると、時間は希薄になる。子供や若者にとってのその時は、生まれてからの短い時間の分母の中の濃厚な一時であるが、年を経ると、その時は、生まれてからの長い時間の分母の中の希薄な一時になる。希薄な時間の中にいると、時の過ぎるのは瞬く間になる。希薄の中で、希薄さにふと気付く。ウオッカをストレートで飲めば刺激的でゆっくり味わうことになるが、氷で割ると水っぽくなり味わうことなく、知らずに飲み過ぎる。

 「住み果てぬ世に、醜き姿を待ち得て何かはせむ。命長ければ、恥多し。」(徒然草)兼好法師は、何時までも生きながらえない世に、年を取って醜い姿となるまで生きながらえてみたところで、それが何になるのか。古人、荘子の言うように、長く生きると恥をかくことも多くなる。と言っている。兼好はさらに、「四十に足らぬほどにて、死なむこそ目やすかるべけれ。」例えば、長生きしたとしても、四十歳に満たないくらいで死ぬというのが、実に見よいことであろう。とさえ、言っている。(もっとも、兼好は、六十八歳まで生きている。)現代では、こんなことを言えば叱られるのであろうが、私には、聴くべきところがある。老醜を曝け出して生きるのも、辛かろう。

 世間でよく見る、好々爺にはなれそうにない。まして、老いさらばえて、なお、世俗の欲望を貪る気もない。今は、まだ、一歩手前なのであろうが、先の見えた人生に、今の無意味さが投影する。

 腹が減ったら食べる、当たり前のことで、腹が減っている時に旨いものを食べれば、気分はいい。草を刈らなければ、野生の原っぱになり、住み難い。遊んでれば、それなりに楽しい。しかし、だから、それがどうなのだ、という思いがよぎる。

 そうであっても、何故か、やるべきことはやらねばと行動するのだから、怠慢であることこの上ない。面倒臭くて、しんどくて、ため息をつきながら生きていくことになる。こんなことは、私個人のことで、世間の同輩たちは、世の為、人の為、生きがいを持って生きておられよう。何をしているのか、などと思うのは、自分自身の怠惰な性格と年齢的衰えが原因なのだろう。

 ろくでもない、くだらない、真っ暗な人生に、光を得ることができるのは若者である。若者は、その無知ゆえに、その無経験ゆえに、人生の愚かしさ、空しさを悟らない。錯覚のうちに、輝かしい未来を夢見て生きてゆく。それは、それで素晴らしい。自由は、若者たちのためにある。

 日常の繰り返しは、安心なのかも知れないが、つまらない。まだ、私も、青臭い。

  五月雨は 時をまとめて 流し去る

 

2010年  7月13日  崎谷英文


幻視・幻聴

 右目と左目の見るものは、異なる。いや、異なるのではなく、見るものの位置が変わっている、と言った方がいいのかも知れない。右目だけで見るときと、左目だけで見るときとでは、見ているものの位置がずれている。両目で見たときと比べて、同じ位置にある方が、自分の利き目である。

 最近、知ったのだが、右目と左目とでは、色も違っていた。自分自身の経験だから、もしかすると、私だけの色ボケかもしれない。単に、私が年老いて、視覚がおかしくなっているだけなのだろうか。

 確かに、近頃、目に見えていると思っていたものが、幻だったのかと思われるようなことが、時にある。「きみ待つと わが恋ひをれば わがやどの すだれ動かし 秋の風吹く」(額田 王、万葉集)すだれが秋の風に動いた時、恋しいきみが見えたのである。ただ、目が悪いのではない。心に念じたことは、実際に現れなくとも、目に見えるのである。ないだろうものが見える。それは、幻なのだろうが、確かに見えている。目で見ているのではない。頭で見ている。心で見ている。

 そもそも、目に見えていることが、事実、真実なのかは解からない。みんなの見ていることと私の見ていることが、同じなのかも解からない。私の見ていることは、私だけが見えているのかも知れない。私の目には見えなくとも、みんなの目には見えているのかも知れない。

 人は、人として共通に見えているものは、多くの人に共通していると思っている。しかし、人の目に見えていることが、真実かどうかは解からない。人は、共通して幻を見ているのかも分からない。本当の真実は、目に見えないものにこそ存在しているのかも知れない。私の見る幻にこそ、真実が隠れているのかも知れない。

 以前から、耳鳴りはしているのだが、そうなると、実際の音でないものが聞こえることになる。これも、年老いたせいか。しかし、やはり、耳で聞いているのではなく、頭で、心で聞いているのだ。目に見えるものと同じく、耳に聞こえるものが真実とは限らない。耳に聞こえるものこそ、幻であるのかも知れないのだ。

 真実の世は、目を閉じ、耳をふさいだその時に、心を澄まして見えるもの、聞こえるものの中にあるような気がする。見て聞いて、一瞬考えても、それは錯覚を生む。見えること、聞こえることの奥にあるものを知るには、見えること、聞こえることに頼らず、そこで、目を閉じ、耳をふさぎ、頭に、心に浮かぶ見えること、聞こえることに思いを託し、目を凝らし、耳を澄ませることが必要なのであり、そうした時、初めて、ほんの少しの真実が見えてくる、聞こえてくるように思う。

 今、何かが目の前を通り私に語りかけ、何処からか分からない音と言葉が聞こえる。その見えるもの、聞こえるものは、幻視、幻聴なのだろうが、それこそ見るべき、聞くべきもののような気がしている。

  雷鳴を 子守歌とて 昼寝かな

 

2010年  7月2日  崎谷英文


タンポポ

 今朝、学校に着いたら、もう、一時間目は終わろうとしていた。英語の授業で、独身で美人のY先生の担当で、もう、後十五分ぐらいで終わるのだから、どうせ遅れるのなら、二時間目から参加しても良かったのだが、Y先生の一所懸命な授業が捨てがたく、静かに教室に参入する。いつものように、熱心に文法を解説するY先生は、もちろん私に気付いただろうが、何も言わず、そのまま授業を続ける。

 高校三年生の秋だっただろうか。本当なら、大学への受験勉強に奮闘していなければならない時期で、現に、真面目な生徒たちは、昨夜は勉強していて、そのまま寝てしまい部屋の電気が点いたままだったのを、隣のおばさんに、徹夜で勉強していたのね、偉いわね、などと言われて、参ったよ、などと言う、至極まっとうな、しかし、私にとっては、別世界の会話をしている。わたしの昨夜といえば、自分の部屋で煙草を悪戯に吸い、その燃え残りがあるのに気が付かず、円筒のゴミ箱に捨てたのが、中の紙に燃え移り炎を出してしまい、慌てふためいたのだが、一瞬の思考の後、座布団で蓋をしたら、直ぐに火は収まり、燃焼について勉強していたことが役に立つものだと、感激していたほどで、全くといっていいぐらい、高校三年生という受験への緊張感はなかった。

 一時間目の授業の終わる時、案の定、Y先生が私を呼び止める。どうして、遅刻したのですか、と訊かれるので、家を出るのが遅れました、と応える。どうして、家を出るのが遅れたのですか、と訊かれるので、起きるのが遅かったからですと応える。どうして起きるのが遅くなったのですか、と訊かれるので、目が覚めなかったからです、と応える。もう、こうなると、こんにゃく問答であり、Y先生は、あきらめたように教室を出て行く。私は、Y先生との会話を楽しんだ後、朝食も食べているはずなのに、腹が減り、弁当を開けて食べる。

 昼の時間となり、今日は、友人たちと学校の前のお好み焼き屋、タンポポで食べることにした。そのお好み焼き屋は、裏門の直ぐ向かいにあるのだが、もちろん、生徒が学校の時間帯にそこで食べることは許されていない。しかし、その頃、学校の規律はいい加減なもので、私たち不良は、平気で、良くその店に行っていた。大半の真面目な生徒たちは、行儀良く、教室か食堂で、昼食をとっている。

 お好み焼きを食べていると、国語の教師で、私のクラスの担任でもあったT先生が、突然入ってくる。私たちは、びっくりしたのだが、T先生は、気にする風もなく、私の隣に座り、チャンポン一つ、と注文する。痩せて小柄なT先生だが、そばとうどんを一緒に焼く大盛りのチャンポンを食べ、これが、痩せの大食い、とのたまう。T先生は、現代国語の先生で、小柄ながら、風貌、威厳を呈し、貫禄豊かな人物で、ある授業の時、生徒に問いを発し、生徒が口籠もっているのに対し、「何とか吐かせ」などと言うのを、私は、笑いを堪えながら聞いていたものだ。まことに、いい先生だった。

 何日か経って、英語のY先生が結婚すると聞いて、少し、落胆した。

  宙に止まり シオカラトンボ 睥睨す

 

2010年  6月22日  崎谷英文


シンベー日記 20

 また、夏がやってきた。この時期になると、蛙が夜中じゅう鳴きまくる。僕の家の北側の田に水が入り、田植えが始まる。そうなると、冬の間、じっと耐え忍んでいて、春になっても、水がいっぱい回りに溢れ、暖かくなるまで、静かに待っていた蛙たちが、まさしく、水を得て、元気な声を一斉に張り上げる。

 この時期は、僕も、夜はよく眠れないから、昼寝をすることになる。もっとも、僕も年を取ったから、もうずっと前から、昼間うとうとすることが多くなっていたし、年寄りの早起きで、夜の睡眠時間は短い。

 蛙たちの合唱である。しかし、僕は、彼らの声が嫌いではない。いや、むしろ心地良いとさえ思っている。一斉に鳴いているといっても、あちらで鳴けば、こちらが応え、こちらが鳴けば、向こうが続く。耳を傾けていると、まるでシンフォニーのように、蛙たちの奏でる声が、響き渡るのだ。うるさい、とのみ思っていると、その音楽は聞こえない。蛙にもいろいろ居て、それぞれ声が違う。アマガエルも居れば、イボガエルも居る。トノサマガエルも居れば、アオガエル、アカガエルも居る。それぞれの音色は、バイオリンやフルートやオーボエになって、それぞれのパートを演じ、一つの交響曲となって、夜を魅了する。僕は、眠れないのだが、それは、うるさくてではなく、蛙たちのシンフォニーに聴き入っているからなのだ。

 午前中、主人と散歩していると、川の中から、ウシガエルが鳴く。まさに、モウー、モウーという地の底に響く、バスーンの音色である。その声に合わせるように、何の鳥か分からないが、キュル、キュルとピッコロを奏でる。夏は、昼も夜も、素敵な音楽に僕は酔いしれることになる。

 毎年の音楽と言っても、それは、やはり、毎年変化する。毎年、蛙たちは同じように鳴いてはいるのだが、その年、その年によって、アオガエルが多かったり、アマガエルが多かったりするから、僕は、毎年、新しい音楽を聴くことになる。今年は、低音がよく響く組み合わせになっている。どの蛙が多いのだろうか。乾物屋のハナ婆さんは、今年は、アカが多いと言っていたが、本当かどうかは解からない。

 主人の稲の苗床にも、蛙はやってくる。主人の村は、田植えを少し遅くしたみたいで、まだ、僕の家の横に苗床が並び、主人は、毎日、熱心に水を遣っている。水を遣っていると、苗の中に隠れていた蛙が驚いて飛び出る。しかし、蛙たちは水が好きなので、苗の外にまで出ようとはしない。水を浴びて、鳴き出す蛙もいる。

 主人が、米作りについて教えてもらっている、農業のベテランのおじいさんが言ったそうだ。「毎年が、一年生だよ。」と。そうなのかも知れない。米作りとか、農業というものは、自然の中で、太陽と大地の恵みを受けて行うのだが、自然は、常に変化する。毎年、同じようであっても、いろいろ変化していく自然の中では、コンピューターのようにマニュアル通りに操作できるものではないのだ。しかし、そうだからこそ、おもしろいとも言える。

 蛙の音楽も、鳥の鳴き声も、毎年、同じようであって、同じではない。同じでないから、おもしろい。

  蛙鳴く 星降る夜の コンサート(シンべー)

 

2010年  6月11日  崎谷英文


情報社会

 今、i-Padとか言う何か、世間、マスコミの評価ですごいものが、世の中に登場してきたらしい。十年以上前であったろうか、ユビキタスという言葉を知った。ユビキタスとは、「偏在する」「何時でも、何処でも」というような意味で、それに、もう一つ、「誰でも」という意味を付け加えて、何時でも、何処でも、誰でも、必要な情報が手に入るというような世の中、それを、ユビキタスの時代と言うらしいのだが、そんな世の中が、将来、来るのだということを読んだ事がある。その時から、十数年、まさに、世の中は、ユビキタスの時代になってきたのだろうか。

 この世は、情報化社会であり、現代社会は、あらゆることが、情報の内容はもちろん、情報の伝え方、情報の受け取り方によって、動いているように思われる。さらに、現代はめまぐるしく変化する時代であり、昨日の情報は瞬く間に古くなり、新しい情報が上塗りしていく。それは、科学の進歩、産業的発展にも支えられているのだろうが、人々、特に若者たちは、情報の洪水の中で生まれ育っているといっても過言ではない。

 情報が、何時でも、何処でも、手に入るということは、悪いことではない。しかし、その情報というものは、今の時代、その内容そのものでなく、その量とか頻度とか大きさによって、人々を刺激し影響を与えているように思われてならない。

 溢れるような、これでもか、これでもかという広告宣伝が、人々の目を奪い、流行を作る。情報の内容ではなく、情報の量と見た目が、現代人を魅了する。ニュースのような報道も、視聴者の感情に訴え、視聴者が、喜び、悲しみ、あるいは憤るような事を、競って報じる。まことしやかに流される報道も、操作されたものに違いはない。世界中の溢れる情報は、限られた時間の中で、事実は圧縮されたり、途切れ途切れになったりして、報じられるしかない。そこでは、捨てられたものは入らず、意図されたものでなくとも事実は歪められる。そうして、似たような報道が並ぶ。

 人々は、情報の海の中で溺れる。グローバル化した世界で、世界中から情報が飛び交い、地球は狭くなる。しかし、人の大きさも、能力も昔と変わってはいない。人々は、情報を処理できるのか。情報自体の真偽もさることながら、膨大な情報を確かに理解し、あらゆる情報を組み合わせて、世の中を掴み取ることができるのか。

 過剰な情報の中で、人々は、全ての情報を得ることはできない。自ずと、限られた情報のみを集めることになる。有り余るということは、ほとんどないということに等しくなる。そうやって、耳障りのいい情報に縋りつき、何も考えない。

 人は他人の大きな声に耳を惹かれ、自分を重ねる。もっともらしい言説に迎合していく。正義だ、善だ、安全だ、安心だ、という掛け声に巻き込まれ、人々の群れは、一斉に動き出す。悪だ、うそつきだ、危険だ、不安だ、という脅しのような声に、身を縮まらせて、みんなの後に付いて行く。

 人は、もはや、与えられた情報を、自分自身で吟味する力を持っていない。次々と現れる情報に追われ、考える暇さえなくなろう。多くの情報を得ることは必要なのだろうが、一つの確かな情報から、静かに、永く考えることも必要だ。

  薪の洞 雨蛙居て 睨みおり

 

2010年  6月2日  崎谷英文


合掌

 掌を合わせて、その女性は帰って行った。食事の前にも、掌を合わすことの習慣のない私のような不遜な輩が、掌を合わされたのだ。私の手には、鉢に入った胡瓜の苗が三本、残されている。

 私の家の西の畑を隔てた隣の家に、その女性は一人で住んでいる。私の小学、中学の同級生の母親で、私の母が生きていれば同年代であったろう。子供の頃からよく知っている人だったのだが、私が十数年前にここに引っ越してきてからは、以前より、いっそう親しくなっていた。

 おばさんは、今年の一月に連れ合いを亡くされた。とても仲の良い夫婦で、おじさんが亡くなる数日前までは、三年程前に心臓の病で倒れ、何とか回復されたおじさんを、労わるように、元気付けるように、二人で田園の中を散歩されていたのに、よく出会っていた。

 突然のおじさんの死には、私も驚いた。人生、世の中というものは、容赦なくこうして移り変わっていくものだということを、今更ながら、考えさせられる。そのおじさんの父親にも私は子供時分に出会っている。わが身において、充分この世の無常は体験してきているはずなのだが、親しい他人の家の、時の流れの中での移り変わりを眼前にすると、尚更、この世の摂理を思わせられる。

 私が、西の畑で珍しく畑仕事をしていた時、杖を突いてそのおばさんが声をかける。種から育てた胡瓜の苗が三本残って、一人ではもうさらに必要ないので、このまま捨てるのもかわいそうだから、私に貰ってくれないかと言う。私も、既に胡瓜を少しは植えていたが、断わる理由もなく、その苗を鉢ごと頂いた。そして、私が有り難く頂いた時、おばさんは、私に向かって掌を合わせた。

 数日前、私を取り上げてくれた、つまり、私を母の胎内から無事にこの世に引き出してくれた産婆さんが、入院したというので、見舞いに行った。その人は、私の子供の頃も、私の実家に出入りしていて、長い付き合いが続いている。

 胃を半分切り取ってしまったということだったが、声はしっかりし、肌つやもいい。ちょうど、ご主人と娘さんとが居られ、もう食べられるはずなのに、食事が進まないのだ、とこぼされるが、本人はいたって平気そうで、嬉しそうに私に笑いかける。

 そのおばさんは、昔から、自分の息子が帰ってきてくれることを心待ちにしていたのだが、とうとう息子は帰ってこないまま、八十路を越えた。一ヶ月ほど前に、何故か気になって、久しぶりにおばさんを訪ねた時は、ご主人が転んで入院しているということだったのだが、立場が逆転したようだ。

 やはり、世の中は、その人が思うようには、時は、順調には刻まれないのだということが解かる。暫く、思い出話をして、帰る時、おばさんは本当に有り難そうに、私に掌を合わせた。とても、小さかった。

  朧なる 月や誘う 迷い道

 

2010年   5月22日  崎谷英文


実験

 「感想なし。」と書いたら、何か書けと、突き返された。高校三年生の春だっただろうか、物理の実験レポートの話である。

 確か、光の回折、干渉実験で、二つの少しだけ離れているスリットから、同じ光を通すと、スクリーン上に、きれいな縞模様が見える。光が波であるということが確かめられる、今でも高校の授業で行われているであろう重要な実験である。二本の光の波の、山と山、谷と谷の重なったところは、明るくなり、山と谷の重なったところは暗くなる。

 実験は成功した。まあ、実験というものは、常に上手くいくとは限らないもので、予測される結果に比べ、いびつになったり、数値がずれたり、あるいは、ぼんやりとした結果しか出ない場合が多いと思うのだが、そのときは、きれいに縞模様ができ、教科書に載っているのと違いなく、見事に成功した。

 しかし、私は、「感想」という、レポートの最後にある項目の所に、「感想なし。」と書いたところ、物理の教師、MN先生に、「感想がないことはない。何か書きなさい。」と命じられたのである。

 そこで私は、何か書こうとしたのだが、大した感想が浮かんでこない。やっぱり、教科書にあるようになるのだという、冷めた思いでしかない。そうなると、私としては、媚びたような文は書けないから、正直に答えることになる。「科学的真実として、既につまびらかになっていることを確かめても、ただ冷静に認めるだけで、別に感想はありません。」と再度提出する。

 MN先生は、怒り狂ったに違いない。勉強もできないくせに、生意気に、偉そうなことを述べるとは、と思ったに違いない。MN先生は、小柄ながら引き締まった身体で、何よりも、射抜くような目が鋭かった。提出した後、言われた。確とした言葉は覚えていないが、「科学的真実を体験するということは、感動的なものなのだ。それが解からないようでは駄目だ。」というようなことだったろう。

 今、考えてみると、私は、全くどうしようもない生徒だったと思う。今なら、もっと実験の成功に感動し、真実への接近にわくわくしていることだろう。しかし、当時は冷めていた。誂えられた実験をやらされることに抵抗していたのだろう。それに、私の天邪鬼な性格も、一因だったろう。

 光というものは、波であって粒子ではない、というのが、以前の定説だったが、今は、光は、波動性も粒子性も持つ、というように考えられている。そのことを、深く探っていくと、全てのものが、波動性と粒子性の両方を備え持っているのではないかとも思われる。

 波は止まらない。止まっては波ではない。静止すると波は消える。粒子は、静止し留まることができるが、波は常に動いている。世の中のあらゆるものは、多分物質だと思うのだが、実は留まることなく、常に変化している。それはまさに、物質でありながら、常に波のように干渉しあっているのであり、光が粒子であって波であること、に類似する。

 MN先生との出会いや、実験においての応酬も、波の干渉であり、エネルギーの増幅や消滅をもたらした、今としては、貴重な糧であり、収穫だったと思う。生きているということは、人と人とのぶつかり合いでもあり、繋がりでもある。

  霧深く 往還すべし 松林

 

2010年  5月12日  崎谷英文


阿修羅

 この間、興福寺の阿修羅像を見る機会があった。顔が三つ手が六本、三面六臂の有名な像である。天平時代の傑作といわれ、国宝になっている。

 奈良駅から歩いて、五分とかからないところに興福寺はある。今や、歴史ブームで、また、仏像、寺院ブームでもあるのだろう、日曜の昼下がり、大勢の観光客で賑わっている。興福寺の広大な敷地には、聳え立つ五重塔があり、それを見ながら、案内板に従って、国宝館に辿り着く。昔は、どのようにして安置されていたのだろうかと思ったりするが、今では、多くの仏像が、美術館に納められ、大衆から入館料を取って見せる。興福寺も、二つ三つ美術館を持っている。その中の最大のものが国宝館である。

 数多の人と並んで、入っていく。阿吽の仁王像が先ず待ち受ける。仏教の守護神として、邪悪なものを決して寄せ付けないという怖い表情をしている。私は、そこから追い払われるのではないかと心配したが、おばさんの後ろに隠れるように入り込めた。

 様々な仏像があるのだが、最も大きいのが千手観音菩薩像である。千と言っても千はなく、正面の二本の手と合わせて四十二本らしい。如来よりも大衆に近く居て、その手で衆生の願いを漏らすことなく掬い取ると言う。どうやら、私だけは、掬い漏れてしまったらしいのだが、別に恨むものでもない。

 矢印に従って進んでいくと、最後に阿修羅像に至る。赤みがかった正面の顔は、見ようによって何とでも見えそうな感じで、穏やかなのか、愁いを秘めているのか、判別しがたい表情をしている。しかし、その複雑な面影は、上品で気高さを帯びている。

 阿修羅は、元々、インドの正義の神であった。阿修羅は、その娘スジャーを力の神である帝釈天に、暴力によって奪われてしまう。阿修羅は、もちろん、帝釈天を許さない。帝釈天に戦いを挑むが、正義の神が、力の神に敵う訳がない。阿修羅は負ける。しかし、阿修羅は正義の神であり、怒りは収まらず、何度も何度も、帝釈天に挑む。しかし、やはり、敗北する。それでも、また、挑み続ける。そうして、そのような争いばかり仕掛けるような者は、神ではないとして、阿修羅は、神々の世界から追放されてしまうのである。今もまだ、阿修羅は、戦い続けていると言う。(ひろさちや氏による。)

 なんとも憐れな阿修羅であろうか。その後、阿修羅は魔神となって、忌み嫌われ、帝釈天は、寅さんの産湯の場となり、人々に慕われていく。

 納得の行かない話であるが、正に、今の世の中の有様に似ている。正義は亡び、力が蔓延る。無理が通れば道理は引っ込み、寄らば大樹の陰、勝てば官軍、長いものには巻かれろ、である。暴力、権力で、正義を貶めるとは何事だ。

 修羅場と言う、血生臭い使われ方をし、阿修羅は憐れである。私は、思わず涙する。この奈良行きも、大学の柔道部の同窓の集いなのであったのだが、学生時代、ひ弱な私は、負けてばかりで、落涙しながらも挑み続けていたのだ。

 そして、今や私は、疲れきり、阿修羅のように戦いを挑み続けることはできない。阿修羅には、顔向けできない自分を感じる。しかし、阿修羅よ。もう戦わなくていい。正義のない力は、いつか滅びるのだ。何時の日か、阿修羅の正義がきっと報われる。

  春風の 鳶たちまちに 失せにけり

 

2010年  憲法記念日  崎谷英文


菫ほどな

 冬の間、凍てつく寒さにじっと耐えていた草花が、いっせいに芽を吹き出す。この春は、天候が不順だが、約束をしているように、木々は、青葉を輝かせ、草花は、緑を伸ばし、花を開かせる。

 彼らは、動かない。自ら動くことができない。しかし、しっかりと大地に根を張って、日向ぼっこをしながら生きていく。冷たい雨に打たれることもある。時には、春の嵐に空を飛ぶこともある。しかし、彼らは嘆かない。冷たい雨は大地を潤し、自分たちの生きていく糧となっていく。春の嵐に飛ばされても、新しい住処を見つけるための、大旅行と楽しむ。

 彼らは、誰も恨まない。踏まれても、折られてもじっと耐える。

 彼らは、光合成によって、生きていく力を手に入れる。生物たちの吐き出す二酸化炭素と水を用いて、太陽の光を受けて、栄養分を獲得する。天気のいい日は、昼寝をしながら、エネルギーを作り出し、夜になると、すやすや眠りながら、そのエネルギーを身体中に蓄え、溜め込む。

 動物たちは、光合成ができない。動物たちは、自分の身体の中で栄養分を作り出すことができない。だから、植物たちの作った栄養分を食べて、自分の身体に取り込まなければならない。しかし、食べる植物にも、その量に限界がある。自然の恵みを、動物たちで分け合わなければならない。植物を食べた動物を、食べる動物がいる。動物たちの争いが始まる。動物たちの世界は、限りあるエネルギーを手に入れるための争う世界となっていく。

 人の世も、また同じ。限りあるものを奪い合い、争いながら生きている。働いて働いて、生きる糧を手に入れる。のんびりと日向ぼっこはしていられない。何しろ、食べなければ生きていけない。

 さらには、人は、無駄に欲しがる。必要でもないものを、いかにもありがたそうに先を争って、また手に入れようとする。あくせくと働き、人の持っているものが欲しくなり、また、焦って働く。

 昔、人は大地の恵を、ただ必要なだけもらっていた。けっして、大地をないがしろにしたり、見下したりはしなかった。大地のおかげで、自分たちの生命があることを、知っていた。人も昔は、草花と同じように、寒い時はじっとしていて、暖かくなるのを静かに待っていた。

 漱石が作った句に、「菫(すみれ)ほどな 小さき人に 生まれたし」というのがある。醜い人の世で、できるだけ小さく、争いのないのんびりとした生を得たいということであろうか。人間は働きすぎだ。そろそろ、菫の花のように小さく、かわいらしく生きていくことを考えてもいい。いきがって、欲張って、見栄を張らずともいい。

 いくら知識を詰め込んだって、結局は、世の中のことも、自分のことも解かりはしないのだから、勉強しすぎても困る。のんびりと考えて、妄想に浸る時間がないと、真実は見えてこない。人の生命が、菫の生命と、どれだけ違うものなのか。

 仙人になって、霞を食って生きていけるか、と考えているのだが、どうやら、難しそうだ。しかし、まだ、あきらめないでいよう。昼寝をしながら、ゆっくり考えることにする。

  春の雨 誰も居らぬか 烏の巣

 

2010年  4月22日  崎谷英文


シンベー日記 19

 朝早く、コツンコツンと直ぐ近くで音がするので、こんな時間にはた迷惑なことだと、眠い目をこすりながら起きて辺りを見ると、主人が、僕の家の裏で薪割りをしている。そう言えば、昨日、何やら、ガタゴトうるさい音が聞こえていたのだが、それは、この薪を運び込む音だったのか。

 しかし、コツンコツンという音はするのだが、バッサリという音ではない。主人は、へっぴり腰に斧を構え、思いっきり振り下ろしているのだが、如何せん、割れてはくれない。薪といっても、大きさは直径三十センチ程もあり、余程上手に当てないとスパッとは割れてくれない。どうやら、主人の力では、中心に斧を落としても割れないらしい。少し真ん中を外した手前に、斧を打ち落とした方が割れるようだ。割れないと、ずしんと手に響くらしい。主人は、斧を振り落とすごとに、しかめっ面をし、手をさすっている。割れないと同じ所に、さらに大きな楔(くさび)を入れるようにはしているようだが、へたくそには、難しい。二度三度、同じ所に楔のような痕をつけてやっと割れる。下手な主人のおかげで、かわいそうに、薪は、傷だらけになりながら、踏ん張るばかりだ。

 斧が薪を外れ、柄の所が薪の頭に当たると、さらに手がしびれるらしい。僕が見ているのを知り、僕に負け惜しみの笑顔を見せるので、笑いたいのをこらえながら、僕が優しく首を傾げてやる。もう一度主人も、にっと笑い返す。

 それでも、ニ、三本を苦労して割り終える頃には、慣れてきたのであろう、小さな薪は、一度でバッサリ、スパッと割れるようになった。薪の割れる時は見ていて気持ちがいい。バサッという音と共に、薪が左右に跳ぶ。昔の人には、薪割りは日常のことだったのだろうが、今の人たちには、非日常この上ないことだろう。トレーニングジムなど行かずに、薪を割ればいい。

 スパッと割れた時は、主人は、自分が剣豪にでもなったかのように、誇らしく一つ咳払いをする。しかし、薪割りは、そんなに甘いものではなかった。張り切って、二十本程割ったところで、体力の限界が来たらしい。冬は終わった、まだまだ時間がある、とばかりに、主人は、引き上げていった。僕は、それでも、主人が後で、身体が痛い痛いと言うのではないかと心配する。

 案の定、次の日、僕と散歩に行く時、腰が痛いだの、腕が痛いだの、僕にこぼす。僕も年だが、主人も年だ。無理は、禁物なのだ。薪割りをやっているときは、こらえられても、後で、ずっしりと身体に来たようだ。

 主人が、腰の痛みを言い訳に、薪割りを休んでいる時に、思いがけずいいことがあった。僕の家が、きれいに掃除されたのだ。北側の壁の隙間もなくなり、水飲み容器も新しくなり、家の周りのがらくたゴミも片付けられて、すごく快適になった。どうやら、奥さんが思いついたのであろう。僕たちが散歩をしている間に、掃除をしてくれていたらしい。

 その後、主人は、奥さんにいいつけられるように、倉庫の掃除をしていた。乾物屋のハナ婆さんも言っていたが、人間の女性というものは、年を取ると強くなるらしい。

  甲羅干す 亀も見てるか 花筏(シンべー)

 

2010年  4月11日  崎谷英文


色を聴く、音を見る

 山々は、全体がくすんだ茶色から緑を濃くし、所々に桜色が見えてくる。川辺には、一面の菜の花がきらめく。内気なレンゲは堤にそって低く点々と並ぶ。ナズナの白い花は、レンゲの間に少し高く、レンゲよりも少し小さく、透きとおるように咲いている。見渡せば、タンポポが、ポツリポツリと花を開く。

 春は、色の季節である。様々な色が、春を奏でる。色は、視覚で捉える。しかし、また、色は様々な音の調べを持つ。黒い色は、重く沈んだ響きを持ち、赤い色は、ぎらぎらとした燃える音色を奏でる。それは、人それぞれ異なるのであろうが、色は、聴覚にも訴える。まさに、春の色合いは、春を演奏する。

 人は、五感で外界を知る。しかし、その五感は、一つ一つ別なものでもなさそうだ。視覚で捉えたものにも、何か音がある。その視覚で捉えたものから、どんな音を感じるかは、人により異なろう。その音は、その人が生まれついて持っている先天的感覚や、育った環境の中で、培われていく。白は明るく純潔で、黒は闇を思わせ不吉であると言う感覚も、色が音になるのではないが、脳の中で、色が、視覚を越えたところの感覚を呼び起こしているのだと言えようか。

 外界からのあらゆる感覚は、神経を通って脳の中に取り込まれていく。色であれば、目から視神経に入り、視覚を感じる脳細胞にたどり着く。音であれば、耳から聴神経に入り、聴覚を感じる脳細胞に行き着く。しかし、脳の中の視覚細胞と聴覚細胞は、全く繋がっていないということもあるまい。どれだけ離れているのかは知らないが、脳細胞どうしもまた繋がっているのではなかろうか。だとすれば、色を見て、音を感じても不思議ではなく、また、音を聴いて、色を感じることもありそうだ。

 だから、音楽を聴いていると、情景が浮かぶ。春の鳥のさえずりは、春の色を眼前にもたらす。犬の遠吠えは、闇へと誘う。よい音楽ほど、様々な色を思わせる。地中のモグラは、目が見えないそうだが、他の感覚から何か見ているのではなかろうか。コウモリも、闇の中で何かを見ている。

 脳科学は発達しているが、まだ、脳の機能が、はっきりと解かっている訳ではない。共感覚という特殊な感覚があると言われる。文字を見て、色を感じたり、数字に色を感じたり、音階に色を感じたりする。特殊な人だけが持つように言われているが、誰でもが持っている、持っていた感覚なのではなかろうか。純真な子供ほど、共感覚を持っていて、年を取ってひねくれていくとその感覚が薄れる。そのような気もする。しかし、共感覚に似た感覚は、誰しもあるに違いない。

 芸術とか文化というものは、唯一つの感覚の良し悪しではないのではなかろうか。五感で捉えながらも、その五感が入り混じり、さらに五感の境界を超えて、訴えてくるもののように思う。

 いい音楽は、目を閉じて聴こう。そうすれば、素晴らしい景色が現れてくる。いい絵画、彫刻は静かに見よう。そうすれば、快い音楽が流れてくる。

  朧月 犬の遠吠え こだまして

 

2010年  4月1日  崎谷英文


教室を出て行きなさい

 私が、数学の教科書を開いて、真面目にも、今日習うであろうページを拾い読みしていた時に、解き終った複素数のテストの小さな紙が、集められていた。突然、教師Aが、私を名指しで、教室から出て行くように言う。どうやら、私が、教科書を見てカンニングをしていたと思ったらしい。私にしてみれば、天地神明に誓ってカンニングなどしていないので、教師Aの言説は、狂気の沙汰と感じるしかない。

 だいたいが、試験で良い点を取ろうとか、誉められたいとか、点数が悪いと恥ずかしいとか、そんな気持ちなどさらさら持っていない者が、カンニングをする訳がない。私は、即座に、「それでは、出て行きます。」と言って、教室を出た。

 ところがである。教室の外に出たのは、私だけではなかった。文学青年のM君は、テストの裏に、自作の詩を書いていて、追い出された。さらに、遅れてきたため、テストを提出しなかったMY君も出て行くように言われた。N君などは、「それなら、僕も出て行きます。」と言って出てきた。

 教師Aにとって、私は目障りだったのかも知れない。私は、馬鹿なくせに生意気で、授業も静かに聴いていなかったのだろう。とにかく、それまでのいろいろな私の言動が、教師Aには癪(しゃく)の種であったのだと思う。常識人で敬愛すべき教師Aは、このあたりで威厳を取り戻したかったのかも知れない。教師Aは、私が本当にカンニングをしていて、謝して教室に留まろうとすると思ったのだろう。それが、誤算だった。教師A の思わくの勢いと言うか、弾みと言うか、そういうものが、M君、MY君にも及んだ。何も言われなかったN君の退出は、その頃の、教師と生徒との微妙な対立の構図を思わせるが、教師Aにとっては、想定外だったろう。

 その数学の授業の間、私たち四人は、図書室にたむろした。お互い、何ら悔いることなく、楽しく過ごしたように思う。今の高校生はどうなのか分からないが、その頃の私たちは、純情な怖いものなしだった。ずる賢くやろうとか、取り入ろうとか、顔色を窺うとか、ごまをするとか、そんなことには、全くの無縁の生徒たちだった。

 その教師Aではなかったが、卒業式で読む送辞の案文を、私が持っていった時、一人の教師が、その文中の、価値観の多様性というところが、気に入らなかったらしい。今では、価値観の多様なことは、形式的には誰も文句は言わないと思うのだが、その頃は、学生運動のあおりが高校にも及んでいて、自由な雰囲気が立ち込めていた時代で、頭の堅い教師は、学歴とか教師の権威とかそういった古い秩序、を崩すものを認めたくなかったのだろう。幸い、一人の重鎮たる国語の教師が、私の文に同意し、もめることなく、そのまま読むことになった。今も、価値観の多様性は、実質的には、認められていない。

 教室を退出した事件は、私の親が学校に呼び出されるはめにもなったのだが、どうということもなく、うやむやのうちに終了した。

  花散らし 浮世を諌む 嵐かな

 

2010年  3月22日  崎谷英文


壊れる

 エアコンが壊れてしまった。二十年以上使っていたのだが、リモコンが、利かなくなった。電池を入れ替えても、本体に、反応しない。それを購入した近所の電気屋さんに、修理を依頼したが、そのエアコンの取替え部品はもうないと言われた。電器メーカーにも、そんな古いものの部品は置いていないと言う。そういうものなのか。

 現代産業は、日進月歩なのだろう。電気器具や自動車は、どんどん新しいものに変わっていく。コンピューター関連の製品なども、次々と新しいものができる。古い型の製品は、長く使えないようにできているらしい。現代産業は、こうして古いものを使えなくして、新しいものに取り替えさせることにより成り立っている。

 今の世の中は、新しいものを生み出すことにより、循環している。現代社会は、古いものを捨て去ることにより、新しいものを流通させる。それは、何も製品だけではない。昔ながらの商店街は鳴りを潜め、スーパーマーケット、コンビニ、チェーン展開する大型小売店が、至る所にできる。物売りの声は聞こえず、昔のデパートも衰退する。グローバル化、生活様式の変化と言うものが、新しい商業形態を作り出す。古いものは捨て去られ、忘れ去られる。

 あらゆるものは壊れる。機械も必ず壊れる。古い生活も新しくなる。不滅のものはない。人は、壊れていくものを、壊れないかのように取り扱いながら、思いがけずに壊れてしまって、やはり、新しいものを手に入れる。

 昔は、古くなったもの、壊れていったものも、補修して使っていくのが当たり前だった。靴下などは、継(つぎ)の当たったものを履くことなどはよくあった。ズボンやシャツなども、よく破れる膝や肱には当て布をして着ていたものである。今、継の当たった靴下を履く子は、ほとんどいない。逆に、継ぎはぎは、ファッションになる。

 電気器具でも、昔は、本当に壊れるまで、大切に使っていたように思う。昔の電器製品は単純だったせいもあるのだろうが、具合が悪くなると、コードをいじくったり、スイッチの接触を確かめたりして、まだ使えるとしたものだった。昔のテレビは、映りが悪くなると、叩けば直った。

 今は、あらゆることの循環のスピードを速めることにより、消費を喚起しなければならなくなっているのだろう。古いものを壊していき、新しいものに変えさせていくことが経済の主題となっている。第二次大戦中には、贅沢は敵だったのが、戦後、贅沢は素敵だとなり、今は、消費は美徳になる。

 機械は壊れるが、人間も壊れる。人間は、壊れたからといって、機械のように新しく購入することはできない。器官移植や人工器官というものもあるが、そう簡単ではない。人間は、壊れたからといって、総取り換えできるものではない。自分の部品を、少しは変えられても、新製品の自分はあり得ない。

 年を取ると、何時壊れるか分からない将来より、壊れていたかも分からないが何とか生き延びてきた過去を思い出すことが多くなった。

  飛ぶ術を 学びているや 雀の子

 

2009年  3月12日  崎谷英文


シンベー日記18

 この冬は、地球の温暖化と言われる中で、予想に反し、結構寒かった。僕の家は、北の方向に開いていて、冬の冷たい風が、一応は板で覆われた北側のその隙間から、容赦なく吹き込んできた。僕たち犬は、寒く冷たいのを好むように言われているが、この年になると、寒さに、はしゃげない。寄る年波は、寒さへの強さも萎えさせる。豊かだと思っていた僕の毛も、薄くなってきたのかも知れない。

 この間、主人と朝早く、霧の中を散歩した。主人は気まぐれで、毎日午前中に、僕を散歩に連れ出すのだが、時間は決まっていない。朝早く行くこともあれば、昼近いこともある。その日は、いわゆる濃霧で、十メートル先が見えない朝だった。よりによって、主人は、面白がって、その五里霧中の中、僕を散歩に連れ出した。全く、気まぐれで、いい加減にしろと言いたかった。人間たちでさえ、外出するのを控えるような霧の中を、散歩したのだ。

 僕たち犬は、人間たちと違って、視界が狭い。色の判断も、人間ほどできない。その代わりと言っては変かも知れないが、人間たちより数十倍も優れた嗅覚と聴覚を持っている。しかし、この霧の中では、嗅覚もあまり利かない。僕は、恐る恐る散歩していた。

 考えてみれば、このように、人も犬も、自分の感知するものだけが、頼りなのだ。人間も、五感で知るものを、この世の全てと思って生きている。犬も、そうだ。人と犬の感知するものが違うのだから、当然、それぞれの世界は異なっている。僕は、薄々感じてはいたのだが、五感で知る世界だけが世界なのではない。五感などでは感知できない、もっと大きな世界もあれば、逆に、もっと小さな世界もある。

 鳥にしか見えない世界もあれば、虫にしか見えない世界もある。僕が、散歩しながら、土の下の、小さな虫や草の芽の息吹きを感じ取っていることを、主人は知らないだろう。この間、トンビの小次郎さんが、宇宙の広大さを語ってくれたが、僕は、ただ想像するしかない。実際に、この目で、宇宙の広さを確認することはできない。

 猫のグレが言っていたが、人間社会では、目に見えない電波と言うものを捕まえて、バーチャル(仮想)な現象を、次々と生み出しているそうだ。テレビ、インターネット、携帯メール等々、人間たちは、五感の及ぶところを大きく広げている。しかし、だからと言って、人間たちが、世界をより確かに手に入れたのでもなさそうだ。乾物屋のハナ婆さんは、人間たちは、むしろますます、訳の分からない幻想に追い込まれているのかも知れない、と言っていた。

 我々と世界との確かな関係、人と人との確かな関係、人と犬との確かな関係というものは、そんなバーチャルの空想世界にはない。見つめ合い、語り合い、触れ合うところにこそ、確かな関係と言うものは生まれる。

 僕と主人とは、ずっと確かな関係だと信じている。

  梅の花 嵐の中に 香を放つ(シンべー)

 

2010年  2月28日  崎谷英文


柿の種

 彼に、柿の種の食い方が悪いと叱られた。言われた時、きっと私は、どんな顔をしていいのか分からなかったと思う。柿の種の食い方など、どうでも良いではないかというのとは違う。人は、それぞれ、正しいと言うのではないが、お気に入りの作法というものを持っているようだ。そこでは、さげすみ、妬み、やっかみなどの意識しない屈折した感情が入り込み、気に食わないと言うことになる。私の柿の種の食い方は、きっと、MN君の流儀に合わず、機嫌を損ねたのであろう。作法とか流儀とか言うものは、その人の育ちにも関わる。私のようながさつな中で育ったものの振る舞いは、MN君の上品な気質を刺激したのであろう。しかし、今も、私がその時、どんな柿の種の食い方をしていたのかは思い出せない。

 私が、大学生になり、東京に住み始め、この東京の街の巨大な構造をまだ知らない頃、彼は、東京の中心を少し離れた街の小さなアパートに居た。その街には、他にも同じ高校の同級生や高校の先輩たちが住んでいた。彼は、大学受験の為に、東京まで勉強しに来ていたのである。私たちの頃は、受験勉強するにも、わざわざ東京まで来るということが普通でもあった。今でもそうなのか分からないが、その頃、東京というところは、田舎者にとっては別天地であり、異国に近かった。

 その頃は、高校を卒業すれば、酒を飲んで良いことになっていた。大っぴらでなければ、高校生も酒を飲むような時代であった。一升瓶を鞄の中に入れて、持ってきていたのはT君だった。そのT君もMN君と同じ街に居た。本当は、彼らの勉強の邪魔をしてはいけないのだが、友情と言うものは有り難いものでありながら、おせっかいすぎることもあり、私は、お構いなしに彼らを訪れ、激励を込めて酒を持ち込む。柿の種事件は、そんな時であったろう。

 MN君は、大柄な、関取を思わせるような体格を持ちながら、威圧的なところはなく、その優しさと優雅さとやわらかさは、私を癒した。彼は、京都の大学に進み、大企業に就職した。就職した後、東京に居ることも多く、時に旧交を温めていたと記憶する。私は、彼を、尊敬している。その底抜けの明るさにはしばしば助けられ、その愛嬌のある笑顔は私を勇気付けたものである。

 ここ十数年、忙しい彼は、日本中をかけめぐって東京から遠く離れていたこともあり、暫く会っていない。その彼の、懐かしい声を聞くことができた。あのT君たちと東京で酒を飲んでいるらしかった。その大きな声は、相変わらずで、私は、懐かしさに舞い上がった。彼が、私に、今度はきっといっしょに飲もうと言ってくれた時、柿の種を思い出す。彼に会うことを楽しみにしているのだが、どのように柿の種を食えば彼のお眼鏡に適うのか、研究することにする。

  よりみちの コップに溢るる 熱き酒

 

2010年  2月19日  崎谷英文


日々の選択行動

 人の日々の行動は、その行動の及ぼす結果、効果により決められるのが、通常だろう。例えば、先生が、宿題をやってこない子を叱る場合、叱られた子は、叱られることが嫌だから、今度からは、宿題をやってくる。宿題をやってきた子には、誉める。すると、誉められた子は、それが嬉しくて、また、宿題をやってくる。

 人の日々の行動は、こうした、こうすれば、嫌なことから逃れられる、あるいは、こうすれば、気持ちの良いことになる、という、やはり、快、不快の基準が当てはまる。しかし、そう簡単なものではない。いくら叱っても、不快感を感じない子には、その効果は少ないだろうし、いくら誉めても、大して嬉しいとは感じない子は、喜んで宿題はしない。

 では、強く叱ればいいのかと言えば、そうでもない。強く叱られすぎると、宿題をやってくる、やってこないの選択以外の選択に走る。宿題などもちろんやらず、叱られる不快を、反発心、反抗心で収めようとする。誉められるばかりでも、上手くいかない。誉められ続けていると、誉められることが、そんなに気持ち良いことではなくなる。そうなると、誉められることをそれほど期待しなくなり、やはり、宿題はやってこなくなる。

 昔勉強した政治学で、状況化、伝統化、制度化という社会的現象変化と言うものを学んだことがある。単純化して言うと、状況化というのは、混沌とした秩序のない状況で、人々は、その時、その場で、どう判断し、何を選択するかを、自分自身の責任においてなさねばならない。社会に権威あるルールとか、秩序とかがなくて、人々が、様々な思いで、それぞれを生きる状況と考えられる。

 しかし、そういった状況の中でも、力のある人々が出てきて、納得できそうな判断、選択というものが、徐々に多くの人々に受け入れられる行動基準になっていく。それが、ほとんどの人々に受け入れられる時、その行動基準は、社会の秩序となる。これが、伝統化である。伝統化した社会では、いわゆる慣習、ならわし、掟といったものが、秩序となる。通常、人々はその行動選択を、慣習、ならわしに従わせる。そこからはみ出る人は、疎外される。疎外される人は生きにくいから、慣習、ならわしに従うようになる。

 ところが、伝統化社会というものは、状況化への危機をはらむ。社会の固定化は、自由を阻み、富や権力の偏りを生む。そこで、伝統を守ろうとする人たちも、自由を獲得しようとする人たちも、守るべき基準を、法律、規則で、明文化しようとする。こうしてできるのが、制度化である。制度化社会では、自由を強く制限する場合も、自由を大いに認める場合もある。人々は、その制度の中で、行動を選択する。

 制度化された社会も、常に状況化になり得る。その例が、革命状況、改革状況、政権交代状況である。しかしまた、その状況化が安定化していくとき、彼らは、伝統化、さらに制度化へと進めていくことになる。

 一つの社会の中でも、状況化、伝統化、制度化は混在し、生活環境のそれぞれにあり、人々の行動は、状況化の中の選択、伝統化の中での選択、制度化の中での選択としてなされる。

 叱れば勉強するというのも、伝統的社会では、大いに通用するが、状況化した社会では、通用しにくい。実は、本来、世の中というものは状況なのであり、絶対にこうしなければならないということはない。何らかの、伝統化した、制度化した社会の中で、人は、知らず知らず、その社会に沿う行動を選択している。K.・Y(空気を読め)も、状況化ではなく、伝統化の一つに思う。

  写し絵の 月隠れゆく 冬の霧

 

2010年  立春  崎谷英文


選択

 人生は選択の連続である。選択とは、何にするか、何をするかというとき、二つ以上の選択肢があり、その中の一つを選ぶ、ということと考えていいだろう。三つ以上の中から、二つを共に選ぶことができるときは、元々、四つ以上の選択肢があったということだろう。

 人は、生まれた時から、選択が始まる。例えば、男に生まれるのか、女に生まれるのかそれは、もはや、すでに決まっていることなのかも知れないが、まるっきりの運命ではないような気もする。自分自身の意思で、男か女かが決まるものではないが、それは、人生における、引き受けなければならない選択の初めなのだろう。何時、何処で、誰の子として生まれるのかも、引き受けなければならない選択の初めと言えよう。

 生まれて、物心つくまでは、本能的反応によって選択せざるを得ない。それは、その個人の脳も含めた身体に与えられた本能による反応だと言える。赤ちゃんには、選択肢は多くない。ただ、与えられた環境、状況、条件を、肯定するか否定するかを、泣いたり、笑ったり、ぐずったりして選択を表現する。もちろん、選択どおりにならないこともある。

 その本能的反応も、人様々である。好きなにおい、嫌いな顔、眠りたくなる音、気持ちの良い肌触り、おいしい味、それらは人それぞれであり、同じ赤ちゃんだからと言って、同じ反応をするとは限らない。そういったものの初めは、それぞれ自分自身が持った本能的好悪感が定める。母親の胎内にいる時から、それは醸成される。その本能的好悪感というものが、個性の始まりである。生まれ持った感覚と言うものであろうが、それは、時を経るにつれて、様々な枝葉に分かれていく。

 成長するにつれて、条件反射的選択をする。こういうことがあれば、そうなる、そうすれば、ああなる、と言うことが、無意識の中で選択的反応を導く。

 いずれにしても、選択の条件は、快、不快である。赤ちゃんにおける受容と拒否の選択も、基本的に、快、不快だろう。その快、不快の感覚は、成長するにつれて、環境、状況により、様々な枝葉に分かれていく。限られた選択肢の中で、ぐずり続けることもあれば、妥協することもある。不快なものが、快にもなる。そういう感覚が、後々の個性に繋がる。

 成長し、物心がつくと、自分自身の意思と言うものができ、選択肢の限られた中で、もがきだす。自立していない子供たちにとって、本当は無数の選択肢があるのだろうが、生まれ育った環境の中で、限りある選択肢しか見出せず、煩悶する。反抗期は、こうしてできる。それはまた、自立、自由への一歩でもある。

 選択肢が多い中で育てられることが良いのだ、と一概には言えない。大事に大事に育てられることが、全て良いのでもなさそうだ。厳しい条件の中で、与えられるものが限定した中で、育てられる方が、良い場合もある。つまり、選択するものが少ない状態で、何かを選択してきたと言うことが、将来、自らの意思で選択していくとき、安易な道を選ばない賢い選択をさせるかも知れないと思うのである。

  烏啼く 野は一面の 冬の霜

 

2010年  1月25日  崎谷英文


色と空

 色即是空、空即是色の色と空である。中村元氏によると、色とは、物質的現象として存在するもののことであり、空とは、何もない状態ということで、実体がないということらしい。

 闇の宇宙に、AとBの二つの光があると想像しよう。二つのものの距離が変化したとき、さて。どちらが動いたのであろう。Aが動いたのか、Bが動いたのか、はたまた、A,Bともに動いたのか。周囲に基準となるものがないと、それは、解からない。たとえ、それが、三つの光であったとして、その三つの距離関係が変化した場合にも、同じことが言えよう。A,Bが動いたのか、B,Cが動いたのか、C,Aが動いたのか、A,B,C共に動いたのか。

 色とは、物質的現象であり、それは、また、絶えず変化する。そして、壊れる。色即是空であり、この世のあらゆる物質的現象、また、存在するものは、実体がない。物質的現象、存在というものは、互いに関係し合いつつ変化しているのであるから、現象としてはあっても、実体として、主体としては捉えるべきものがない。この実体として捉えるものがないことを、空という。

 この世を、感覚として捉えるとき、あらゆるもの、あらゆることは、互いの相関関係の中に存在するに過ぎない。隣の列車が動いたとき、自分の列車が動いたと感じる。ゴムは柔らかいが、豆腐より堅そうだ。鉄は堅いが、ダイヤモンドより柔らかい。ねずみは、小さいが、アリはもっと小さく、象は大きい。

 人が感覚によって、あらゆるもの、あらゆることを知覚する場合、すべて何ものかとの関係性において捉え、知覚している。鳩山首相は、金持ちだろうが、ビル・ゲイツ氏はもっと金持ちであろう。私は、貧乏だが、もっと貧しい人たちがいる。人が何かを知るというとき、あらゆることは、自分との関係になってくる。そうやって、知ることのできることは、物質的現象への知識、感覚であって、すべては相対的なのだ。単なる比較だけを言っているのではない。美しい、美しくない、好きだ、嫌いだ、は単なる比較ではない。堅い、柔らかいも、触りぐあい、噛みぐあいという、自分自身が基準になっているのではなかろうか。だとすれば、それは、単なる物質的現象の世界であり、実体ではなくなる。

 中村氏は言う。物質的現象の中にあって、この空性を体得すれば、根源的主体として生きられる。色不異空、空不異色。物質的現象は、実体がないのであるが、実体がないということは、現象、現実的存在から、実感としてつかまえなければならない。人は、物質的現象しか見えないのだから、その現象が、実体がないこと、つまり、あらゆるものと関係し合うことによって、現象として成立しているに過ぎないことを現象から見極めるしかない。

 私というものも、常に、他のものとの関係において、生成し、変化していく。私という実体はないのかも知れないが、現象の中で生きていかなければならない。

  寒風に 身を晒してや 生きており

 

2010年  1月15日  崎谷英文


信じる

 人の言葉で、信じる。しかし、人の言葉だからといって、全て信じるわけにはいかず、また、信じるものは、人の言葉だけではない。

 人は、生まれてからずっと、何かを信じて生きてゆかなければならない。乳幼児においても、ものごころがついていないとは言え、生まれついた本能的なもので、好きなこと嫌いなことがある。信じる、信じないの話、ではなさそうだが、その子供にとっては、その好悪の感覚を信じるしかない。選択の幅の少ない中で、最も、自分が気持ちよくなる道を選択していく。痛かったり、不味かったり、不快だったりしたら、泣いて拒否する。楽しく、気持ちが良かったら、笑う。

 成長するにつれて、自らの意思、意志が出てくる。自らの意思に沿って生きてゆくことが、自由なのだろう。人は、生まれついての様々な条件の中でも、選択肢は増え、自分の思いを実現しようとする。しかし、その限られた条件の下では、自ら信じることに突き進むことは、たやすいことではない。それでも、そのように生きていくことについて、信じていかなければ心は穏やかでなくなる。嫌だ嫌だと思いながら、己の意思を抑えて生き続けることは、不幸だろう。その嫌だ嫌だという思いを、かき消してくれるのが、家族であったり、友人であったり、師であったりする。そのように、人は、成長していく過程において、自らの生き方を信じられるように、周囲の力を借りながら、生きている。

 しかし、信じることが、正しいのかどうかは、不明だ。選択した道が、ベストなのかは不明だ。年を取るにつれ、自由に物事を考えられるというのは間違いで、年を取れば取るほど、逆に今までの生き方に拘束される。これまでの自分を否定することは難しく苦しい。社会的に、不自由になっていく。若いうちは、様々な選択肢があり、また試行錯誤の末、生き方を変えることもできる。自由は、本質的に、若者のものである。頑固なおじいさんは多い。老人になればなるほど、自らの自由を放棄していく。

 いずれにしても、生きるということは、何かを信じて生きていくということなのだろう。念仏を唱えれば、極楽浄土にいけると信じていれば、心穏やかになれそうだ。念仏即成仏を信じられれば、平気で死ぬこともでき、平気で生きていくこともできる。

 親鸞は、「歎異抄」で言っている。「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。」親鸞は、念仏を唱えた先に、極楽があるのか、地獄があるのかは、どちらでも良い、ただ、法然聖人のことを信じるだけであって、たとえ、だまされて地獄におちることがあっても後悔しない、と言っている。信じるということは、信じられそうもないことを、盲目になって信じきることなのかもしれない。

 信じきれないわが身は、日々悶々として暮らすしかない。

  友在りて 正月の酒 愉快なり

 

2010年  1月5日  崎谷英文


仙人の戯言

 自由は実は、苦しいのである。
自分自身で判断し、自分自身で責任を持つ
これは実に大変なことである。
勉強するのは、この考えること、判断すること
責任をもつことの前提としてある。